旧日光街道ウォーク② 千住宿→草加宿
こんにちは、ばーどです。
2024年1月6日(土)、旧日光街道ウォークの初日の2区間め。
東京都から埼玉県に入ります。
1.千住新橋
千住新橋で荒川を渡ります。
現在の荒川の下流部分は、大正時代に掘削して整備された流路で、荒川放水路と呼ばれています。
このため、江戸時代の街道のルートは、この川の部分を千住新橋とはほぼ45度の角度で直進し、上流方面に最短経路で結んでいたとされています。
荒川土手を降りた場所に建つ寺。
このあたりから先は、本来の旧街道ルートに合流します。
英語表記は、Kyu-Nikko-Kaido St. なんですね。
2.鷲神社
足立区の住宅街を、のんびり進みます。
北風は吹いてますが、日中は陽射しが差し、それほど寒さを感じません。
梅田七丁目交番前で、右から斜めに合流する道路。
実は、東武伊勢崎線の旧線路跡です。
東武伊勢崎線は明治45年に全線開通。その後大正12年に荒川放水路が完成すると、鐘ヶ淵~西新井間の区間で一部付替えが必要となりました。
その旧線路跡が、道路に転用されたというわけです。
三代将軍家光らが、鷹狩りでよくお訪ねになられたそうです。
江戸城からも近く、ちょっとしたアウトドアレジャーに適したエリアだったかもしれないですね。
創建の1318年は、鎌倉時代末期。
江戸からだと鷹狩りにも来られるくらいですが、鎌倉からここまではかなりの距離がありますよね。
ちなみに、この辺りに「六月の一里塚」があったとされていますが、その場所は不明、痕跡もありません。日本橋から三里目になります。
旧街道沿いの学校。そこに通う子供たちにとっては、歴史を学ぶ素材が目の前にあり、すごくいい環境だと思います。
「通学路が旧日光街道で、400年前に参勤交代がそこを通っていた」なんて、とてもすごいことですよ。
旧日光街道は、直進します。
足立区の最北端まで来ました。
3.都県境
東京都と埼玉県の境は、毛長川。
県境の川と言うと、利根川や木曽川のような大河を想像しますが、都会の小川という感じです。
映画"翔んで埼玉"では、埼玉県民が東京に渡るには通行手形が必要、というパロディーがありましたが、ここが関所のあった場所だったかー、なんて思ってしまいました(笑)。
旧日光街道で初の県境越えでした。
4.火あぶり地蔵
埼玉県に入っても、風景はあまり変わりません。
旧瀬崎村は、かつては沼地が続き、日光方面へ向かう人々の多くはこの地を避けて迂回していたという。
徳川家の日光参詣にあたり、最短距離で結ぶ新道を整備するために、木々や草木を束ね縦横に埋め込んで通行しやすくしたところ、家康が「草も役に立つものだ」と褒めたことから、「草加」の地名がついたと言われています。
江戸時代、千住へ奉公に出ていた娘が、母の重篤の知らせを聞いて、里帰りを申し出たが、奉公先から許しをもらえず、「ここが燃えてしまえば仕事が休みで家に帰れる」と思い、火を放ってしまう。娘は火あぶりの刑に処せられるが、村人が供養のために地蔵を建てたと言われています。
草加の一里塚。
江戸から四里めにあたりますが、その詳細な場所は不明です。
街道ウォーカーにとって、残されている一里塚(または一里塚跡)を見つけることは楽しみですが、痕跡が不明なものも少なくありません。
都市部に近い地域では開発や道路拡張の影響を受け、逆に山間部や河川沿いでは自然災害により記録や痕跡が失われるケースも多いようです。
草加と言えば、「草加せんべい」が有名。
街道沿いにも、せんべい屋の看板が目立つようになりました。
5.<第二番>草加宿
市役所の敷地は、幕末の豪商の屋敷跡。
その一角には、子宝の地蔵として親しまれている、地蔵堂があります。
「越ケ谷へ一里三十三町」とあります。約9kmですね、
宝暦四年(1754年)、大川家から清水家に、本陣職を委譲されています。
茶店の「おせんさん」が、売れ残った団子をつぶし、天日干しにして焼いたのが、草加せんべいの始まりだと言われています。
草加宿は、陸路輸送とともに川の舟運による物資が集まる地だったそうです。川の駅の裏手にも、綾瀬川の支流が通じています。
さきほどの曾良像とは、川を挟んで向き合って建っていました。
千住宿で3体の芭蕉像に出会っているので、これで4体目。
芭蕉像に見送られ、綾瀬川沿いの草加松原を抜け、越ケ谷宿へ向かいます。
千住橋→草加宿
距離 9.7km
所要 2時間30分(休憩除く)
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