
旧日光街道ウォーク⑬ 小山宿→新田宿
こんにちは、ばーどです。
2024年3月16日(土)。
今日は、小山宿から宇都宮宿まで歩きます。
新幹線だと1駅ですが、在来線で5駅、宿場も5宿。
1.花垣



写真を撮ったり見どころマップを見ていたら、準備中のスタッフさんから「よかったらどうぞ」と紙のマップをいただきました。ありがたいです。


小山宿の北口(日光口)にあたる神社で、今日一日の道中安全をお参り。
そして出発です。






水戸城下と日光(奥州)街道を結ぶ、結城街道。笠間、下館、結城など6宿が設けられ、今の県道264号がそれにあたるようです。

参道沿いの桜並木が、春には美しい風景となるようです。







小山市花垣地区。
名前の由来はわからず、家々の垣根に花が続くわけではないですが、なんとなく明るい気持ちにさせてくれる町名です。

気合十分だが、実は休業中

2.喜沢追分


日光街道と奥州街道が重複する区間ですが、ここの踏切名は「奥州街道」。
利根川を渡ってすぐ、中田宿・古河宿間の踏切は「日光街道」でした。
ちなみに、日光まで60kmほどありますが、ここが最後の踏切です。



とある工場敷地内にある、昭和初期風のレトロな建物が目につきました。


小平産業。
昭和13年創業。軍需工場から、戦後は民需に転じて、ダンプやトラックなど特殊車両のボディー製造を行う会社でした。


すでに取り組んでいるかもしれませんが、物流機能の中継拠点新設や、震災の仮設避難場所など、幅広く活用できそうです。


蔵の壁面、屋根の下には、火除けの水・龍の字や、家紋が描かれることが多いようです。この蔵は「寿」の一文字。






馬力神。
その名の通り、馬の守護神。特に栃木県内に多く、274体あるらしい。街道沿いの集落には必ずありそうですね。
喜沢集落で、日光街道から左へ分布する道が、「壬生道(みぶみち)」。
壬生、楡木、鹿沼を経て、今市宿で再び日光街道に合流します。日光西街道とも呼ばれ、中山道の倉賀野宿(高崎市)から日光を目指す例幣使街道と、楡木宿で合流しています。





壬生道沿いの村人が、日光詣での旅人向けに「左 日光」と記した碑を建てたところ、日光(奥州)街道沿いの村人の妨害にあい、建てては倒され、の繰り返しだったとか。旅人の奪い合いが起きるほど、日光のブランド力は強かったのでしょう。
ちなみに、芭蕉一行は壬生道を通り、壬生宿と鹿沼宿に滞在しています。

3.喜沢の一里塚
喜沢追分を過ぎて間もなく、日光街道は県道を離れます。久々の「旧道」区間。




住宅の切れ間に現れた雑木林の中に、「喜沢の一里塚」がありました。
案内標識も説明書きもなく、知らなければ通り過ぎてしまうような場所。そんな普通っぽいところが、妙に新鮮。


東塚は、盛り土がかろうじて残っていました。










合流地点から100mほど国道を戻り、ある歩道橋を見に行きます。


昭和37年。通学する子供を守ろうと、自治体と学校が、当時はまだ珍しかった歩道橋設置を決定。以降、各地の学校付近に横断歩道の設置が広まったと言われています。
ここが「日本で初の歩道橋」とした資料もありますが、Wikipediaによるとそうでうはないようです。昭和34年に愛知県に学童専用橋が設置され、この羽川の歩道橋も同じ学童専用橋としての位置づけだった模様。その後昭和38年に大阪駅前に完成した歩道橋が、日本初の歩道橋として認定されています。

4.<第十三番>新田宿
十三番目の宿場、新田宿は、小山市羽川にあります。
国道沿いには、土台に「羽川 新田宿」と彫られた行灯が続き、宿場町であった名残が少しだけ感じられました。



本陣には、写真の札があるのみ。
その他の民家にも、旧屋号の札が掛けられて、集落全体で宿場町だった歴史を表現しています。



これ以外、当時の雰囲気を残す遺構は全く残っていないのが残念です。
雰囲気を味わえる場所を求め、街道を少し離れてみました。


街道に戻ります。



かつては星宮神社で、1872年に神武天皇を勧請したことで、橿原神社を名乗るように。明治時代には、神社の裏手を走る東北本線のSLの火の粉で、本殿が消失する悲劇も起きているそうです。
小山市の、隠れた桜の名所で、もう少しすると"桜のトンネル”が見られるかもしれません。


次の小金井宿までは、すぐの距離です。
小山宿→新田宿
距離 5.7km
所要 1時間35分(休憩除く)