旧東海道ウォーク 52 石部宿→草津宿
2023年11月3日(金・祝)。
秋の日は短く、日のあるうちに着けるように、草津宿へ向かいます。
1.上道と下道
2.和中散本舗
3.田楽発祥の地
4.草津川
5.<第五十二番>草津宿
1.上道と下道
石部宿の京口を抜けるとすぐに、東海道は2本に分岐します。
初期の東海道(下道)は直進ですが、野洲川の氾濫を避けるために、1683年に設けられた上道が、左へと続きます。
山中を通る上道沿いには、石部宿から五軒の家が移転を命じられ、五軒茶屋として旅人をもてなしたとのこと。
今回は、下道を進むことにします。
自動車の部品製造企業。グローバル展開を進め、農業機械や医療機器分野にも進出しています。
モノづくりのテクノロジーと、近江商人のスピリッツの融合、というところしょうか。
上道と下道の間の丘は、かつて銅が採掘され、金山(かなやま)と呼ばれたそうです。
しかし、今の下道の環境は、名前と裏腹の姿でした。
確かに不法投棄らしきものが、道端に多くありました。
旅人や住民のマナー、見られてますね。
名神高速道。
この東海道ウォークで何度も見た東名高速に接続して、愛知から兵庫まで続いている道に、ここで初めて遭遇です。
(土山宿の手前で第二名神とは交差)
ここが市境で、湖南市から栗東市(りっとうし)に入ります。
鈴鹿峠を越えてから寄り添う野洲川。左右の山が近づいて平野が狭くなり、東海道と川が最接近する場所が2箇所あり、1つは石部宿の手前の「横田の渡し」、もう1つが今いる辺りになります。
だからこそ、洪水が多く発生して、通行不能が起きなくなったのでしょう。
かつて栗太郡と呼ばれたこの地で江戸時代に選定された「栗太八景」。
その一つに、伊勢落(いせおち)集落の風景が詠まれています。
1989年に当時の栗東町が、新たに現在の「栗東八景」を選定しています。
伊勢落(いせおち)とは珍しい地名ですが、伊勢神宮への参詣路である伊勢大路がなまったという説があります。
信州の善光寺に四十八度詣をした武士が、のちに分身を安置したそうです。
2.和中散本舗
旧東海道と重なっていた県道は、右へ分かれて行きますが、旧道は直進。
ただ、その先で道なりに左方向へ。
旧東海道を歩いて感じたことの一つが、沿道の神社仏閣の多さです。
これまでは多すぎて数えてませんでしたが、石部宿と草津宿の区間(約10km))で試しに数えてみたら、15軒。これに石部宿内に5軒。(見落としあるかも)。
宿場間の距離、周辺人口、宗教に対する信仰心、宿場間の地形などに相当なばらつきがあり、かなり粗々な計算ですが、
<宿場間>15軒x54区間+<宿場内>5件x53宿= 1075軒 ができます。
江戸から京までは500km弱ですから、平均すると2kmに1ヵ所の割合に。
寺院は隣接することも多く、この浄久寺と福正寺は真向いにありました。
単なる信仰の対象ではなく、地域の情報発信・情報交換の貴重なスペースであり、ときには商いや学問の場としても、集落には重要な空間だったのでしょう。
このあたりは六地蔵という地名の間の宿で、道中薬を扱う店が数軒あり、中でも大角家の「ぜざいや」は、家康の腹痛を治した「和中散」の本家として知られています。
栗東市の手原集落に入り、田園風景から市街地に入ってきましたが、街道筋の町屋風の建物も残され、伝統との調和が保たれているように感じます。
醤油の顕彰碑? と思ったが、創業者一族の功績を刻んだものでした。
3.田楽発祥の地
雀が集まる木と、菜飯と田楽が名物の、人気の茶屋があったとされます。
足利九代将軍義尚が、勢力拡大を狙って近江の六角氏討伐に向かう途中で、この地で病死したそうです。
各地でこの横断歩道が、増えています。
突き当りの先の堤の向こうには、大きな目川池があります。
当時は池のほとりを回り込んで辿る道だったかもしれません。
目川集落は、かつての間の宿。
名物が二つあり、一つは「ひょうたん」。
今で言えば、ペットボトルやステンレスボトルでしょうか?
旅人にとっては必需品ですよね。
目川のもう一つの名物が、田楽。
寺院が多く豆腐を食べる機会が多いこの辺りで、味噌を付けてたべる豆腐田楽が発祥したと言われています。
諸説あり、本当の発祥地かどうかは不明ですが、この地の立場で食べる菜飯田楽が東海道の名物だったことは間違えないようです。
目川集落には3軒の茶屋跡があり、それぞれ説明板が建てられています。
4.草津川
旧東海道は大きく右へカーブします。
左側(西側)に堤が続く道は、春には桜並木の名所となるそうです。
この堤の先、この辺りは住民以外の立入禁止の表示がありましたが、広く平らな土地が広がり、家庭菜園のような使われ方をしているようでした。
この土地、実はかつての草津川が流れていた場所です。
石部宿の手前で2本の天井川を(トンネルで)くぐりましたが、草津川はさらに大きな天井川でした。草津市街地の真ん中を天井川で流れてましたが、増水時の危険性もあることから、琵琶湖へ流れ込む地点から数キロ手前で付替えを行い、廃川となった土地がここにあります。
この先で中に入れる場所がありますが、しばらくは昔の川沿いに進みます。
膳所(ぜぜ)藩は、大津市の膳所に居城を構えていたが、だいぶ離れたこの辺りにも所領を持っていたのでしょう。
老いた家畜が処分されずに余生を過ごせるよう、地元の庄屋が設置したという。
人の営みを支えた動物への感謝、素晴らしいですね。
草津市内に入り、旧草津川川跡が整備された区画が出てきます。
旧東海道も、堤の上に繋がる道を辿っていきます。
天井川だった草津川の下を、国道1号の下を、第一・第二草津川トンネルが貫通していました。
そのトンネルの入り口に掲げられていた扁額が、保存されています。(ちなみに、当時の地元の中学生の字だそうです。)
2002年に川の付替えが完了。
その後、トンネルは廃止となり、今の姿はご覧の通りです。
国道を越えると、かつての川床だった場所は、草津川跡地公園となって、市民の憩いの場となって開放されていました。
国道から約100m進んだ地点で、旧東海道は草津川を対岸へ渡っていました。ただし橋は架けられず、徒歩渡り(かちわたり)だったとか。
今は横断する道路を左折し、(かつての)対岸へ歩いてたどり着きます。
そしてこの地点が、草津宿の江戸口にあたる場所。
日没近くなったので、今日はここで中断し、そのまま草津川跡地公園を通ってホテルへ向かうことにしました。明朝、東海道で草津宿に入ります。
5.<第五十二番>草津宿
昨夜の中断地点へ戻る途中、草津宿で合流する旧中山道の上を横断します。
ちょうどこの下で中山道と東海道が合流してますが、のちほど書きます。
11月4日(土) 7時20分。
昨日の中断地点、草津宿の江戸口に到着です。
中山道との追分となる地点に到着です。
追分となる地点に、これだけの見どころが集中してました。
昨日中にここに来ることはできましたが、暗くなって見るのではなく、明るい時間帯に見たかったので、朝来ることにしました。
2020年国勢調査以降の人口増加率(2023年10月現在)を自治体別にみると、草津市は全国第8位の2.6%。近畿地方ではトップです。
大阪や京都からJR1本で結ばれていることや、自然や歴史に触れる機会が多く、住みやすい環境なのでしょう。
宿場内を進んでいくと、歴史的な名所と、古い住宅と、高層マンションが、混在するカオスさが感じられます。
中山道追分からほどなく、現存するものでは東海道筋で最大級、とされている、草津宿本陣が現れます。
草津宿には二軒の本陣があり、どちらも田中家。
格としては、こちらの田中七左衛門本陣のほうが上だったようです。
ここに最も長く滞在せざるを得なかったのは、日向国の佐土原藩一行。
参勤交代中に大名島津忠徹がに急死。正式な跡目届出を出してなかったため、幕府の受理まで動けず、1泊の予定が77泊になってしまったとか。
もうひとつの本陣、田中九蔵本陣跡には、十三代家定に嫁ぐ篤姫は、ここに宿泊したそうです。
現在は跡地に民家が建ち、「マンボのとなり」という名で地元の憩いのスペースになっているそうです。ちなみに「マンボ」とはトンネルのこと。草津川「マンボ」の先、という意味でしょう。
草津宿の京口にあたるのが、黒門。
1817年に設置されたとされ、付近を流れていた黒門川は、その後流れを変え、さらに草津川改修後にはその本流が付け替えられて、今に至っています。
石部宿から草津宿、さらに宿場町を抜けるまで、足掛け2日がかりでした。
明けた本日は11月4日(土)。
次の大津宿を抜けて、京・三条大橋へと、本日中のゴールを目指します。
石部宿→草津宿
距離 10.5km
所要 2時間40分(休憩除く)
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