旧甲州街道ウォーク⑯ 野田尻宿→犬目宿
こんにちは、ばーどです。
2024年9月8日(日)。猛暑の8月を避けたつもりが、暑さ厳しい街道ウォークでした。この日の予定は、野田尻宿から中初狩宿まで、約22km。
0.スタート地点まで
前回、野田尻からの帰りの中央高速バスは、渋滞にはまってしまいました。
今回は、その後見つけた別ルートで、スタート地点まで向かいます。
中央本線で大月方面に向かい、途中の四方津(しおつ)駅で下車。普通列車が1時間に2~3本止まる、山間の静かな駅です。
駅前にポツンと立つバス停。ここから、野田尻宿の次の宿場がある犬目まで、1日1本のバス(上野原始発)があり、野田尻宿の中へは入りませんが、近くを通ります。
実はバスに乗る前に、ハプニングが。
バス停前で周りの風景を眺めていたら、国道を上野原方向からバスが接近。バス停は国道から駅前に入る分岐を10mほど入った場所にあり、停留所まで入らなくても分岐付近で停まってくれるだろうと思ってたら、そのまま行ってしまうではないですか。
1日1本のバスを逃すわけにはいかず、条件反射的に走って追いかけました。ここで、2つの偶然が発生。
まず、走り出した私が飛び出すのではと、後ろの乗用車がクラクションを鳴らし、これでバスが気づいてくれたらしく、減速。
次に20mほど先で、右折車が対向車を待って停まって、その後ろのバスも停車。これで何とか追いついて、乗車できました。
波乱のスタートでしたが、下車したバス停の貼り紙にびっくり。
地方の路線バスでは、交通弱者の通学や通院の足に「平日のみ運行」は見かけますが、ここでは、スクールバスやマイカーを利用するのでしょう。土日を残したのは、ハイキングの需要でしょうか?
野田尻宿までは、ここから数分歩きます。
ようやく街道ウォークの再開です。
1.矢坪坂の古戦場
旅籠の女中だったお玉(実は龍の化身)が、水を湧き出させた伝説。
甲斐と相模の軍勢が戦った場所。
古戦場というと、屋島や川中島のような平地や、関ケ原や桶狭間のような谷あいの地形が浮かびますが、山中で一戦交えなければならないケースもありますよね。
2.座頭転がし
矢倉坂から先、ますます険しい道になりました。周辺には現在も集落や畑地があり、高速道路や県道も近くを走るので、意外な感じがします。
険しい道の途中、「座頭転がし」なる難所があります。
盲人の一行が先導する者の声を頼りに進んでいたが、曲がりくねった道のため、声のする方向に進んだところ、そこは崖で次々に落下したと言われています。
3.尾張の殿様
険しい道を抜けた先、蛇木新田は、街道整備に合わせて設けられた集落です。
この小さな集落に、尾張家の殿様の定宿があったそうで、意外だと思いませんか?
まず、江戸への往来に、なぜ東海道ではなく甲州街道なのか?。
おそらく駿河国から甲斐国へ北上して、そこから東だけだと思いますが。
一説によれば、参勤交代などで東海道を通る西国の諸大名と一緒になる(すれ違う)のを避けるため。諸大名にとっても徳川家と会うのは、正直面倒だったかもしれないですよね。
もう一つ、なぜ宿場町の本陣ではなく、ここなのか。これも諸説ありますが、ここからの富士山がお気に入りだったとか。
個人宅なので門の中の家屋の写真は控えましたが、瓦には葵の御紋がありました。
4.<第二十一番>犬目宿
県道に合流した地点に、「これより犬目宿」とありました。
犬目宿は戸数50軒ほどの宿場で、本陣も2軒ありました。標高が高く、房総の山々まで望むことができた、と言い伝えがあるそうです。また、北斎の「富嶽三十六景」、広重の「不二三十六景」にも、ここからの眺めが描かれています。
日本史の教科書にもある、天保の飢饉。
犬目宿の旅籠を営む兵助が、村人を救うために百姓一揆を起こしたところ、騒動が甲斐国全体に広がって暴徒化してしまったのが、天保の甲州一揆。その兵助の生家跡が、街道沿いにあります。
石段を上がると富士山が見える、との記述もあったが、今日は霞んでいるのでそのまま進みます。
犬目・鳥沢・猿橋と、お供の三匹に繋がる宿場名が続くこと、さらには山梨県が桃の名産地なので、桃太郎にちなんだ町おこしがなされているようです。
確かに、「犬・鳥(雉)・猿」は偶然ではないよう気がしますね。
野田尻宿→犬目宿
距離 4.2km
所要 1時間00分(休憩除く)
次は、桂川沿いの谷へ下りて、下鳥沢宿・上鳥沢宿へと向かいます。