旧東海道ウォーク⑭ 原宿→吉原宿
2022年10月8日(土)。
江戸から三十里目を越え、西へ向かいます。
1.原の一里塚跡
2.間宿
3.浮島沼
4.元吉原
5.左富士
6.<第十四番>吉原宿
1.原の一里塚跡
原宿を過ぎても、県道163号をそのまま西へ進みます。
しばらく進むと、原の一里塚跡の案内板が、見えてきました。
昔のまま残る一里塚とは別のスタイルで、民家の片隅にひっそりと案内板だけが建つ姿も、なんだかほっとします。
一里塚のある当たりの地名は、一本松。
なんだか混同しそうです。
本日2回目の、東海道線の踏切横断。
2.間宿
踏切を渡るとすぐ、富士市に入ります。
右から県道380号が近づいてきました。沼津の東間門で交差し、海側を千本街道として走っていた道です。
東柏原の交差点で、合流します。
原と吉原、二つの宿場町の中間あたりには、柏原の間宿(あいのしゅく)がありました。
富士山を眺めこの場所に、茶屋が立ち並んだのも、納得です。
3.浮島沼
この辺り、南北に流れる放水路を何本も渡ります。
東海道の北側に湿地帯が広がり、総称して「浮島沼」と呼ばれていたが、江戸時代以降に陸地化されて水田地帯になったそうです。ただし、その後も排水が必要であったために、放水路が設けられているというわけです。
「東海道中膝栗毛」では、弥次喜多の二人が名物のうなぎを食べたのが、この浮島沼沿いでした。
沼田新田の一里塚跡は、昭和放水路を渡った先の路傍に、小さく残っています。
檜の交差点で、旧東海道は左へ分かれます。
4.元吉原
間もなく「元吉原」に入ります。
今目指している吉原宿のだいぶ手前ですが、これにはわけが。
最初の吉原宿はこのあたりにあったが、1639年の大津波で壊滅な被害を受け、宿場ごと中吉原に移転。更に1680年にも高潮が押し寄せ、今の吉原本町付近に「吉原宿」が形成された。つまり宿場町が2度移転したことになります。
元吉原は、街道沿いに古い集落が続き、かつての宿場町の雰囲気を残していました。
5.左富士
東海道線を越え、吉原駅近くを通ります。
二代目の吉原宿となった中吉原の辺りから、旧東海道はやや右に湾曲し、富士山を左に臨む「左富士」と呼ばれる場所になります。
左富士神社の敷地内に、依田橋の一里塚跡があります
神社を出て少し進むと、左富士のポイントがあります。
源平の富士川の合戦で、水鳥が飛び立つ音に驚いた平家が退散した場所。
6.<第十四番>吉原
平家越え橋を渡ると間もなく、三代目吉原宿の東木戸がありました。
今日4つめの踏切は、東海道線吉原駅から岳南江尾まで伸びる、岳南電車。
ちょうど列車が来たので、写真を撮りました。
吉原の町の中心街として、アーケードが伸びていました。
宿場の中が枡形になっていました。
吉原宿の西木戸跡がありました。
富士市は、旧富士市と旧吉原市が中心となって、1966年に合併。
吉原の町を抜けても、二つの町の中間に位置する地域が続くので、しばらくは市街地を進みます。