無低批判と福祉オリエンタリズム
はじめに
無料低額宿泊所、通称「無低」。一般的には、住まいを喪失し、生活保護を申請した困窮者が利用するとされる、知る人ぞ知る施設である。ここ15年ほど、メディアや研究者、活動家から「貧困ビジネスの温床」と問題視されてきた。直近ではこんな記事がネットにあがっている。
記事によると、カーテンで仕切られただけの2段ベッド、定員10人の部屋を。利用料を払うと、毎月手元に残るのは4,000円未満。門限は午後5時。起床や入浴の時間も決まっており、食事も交替制、15分ほどしかないという。
住まいを喪失した困窮者の生活環境として、不安をかきたてるものだろう。報道を通し、幅広い人々に問題意識を抱いてほしいという願いはよくわかる。
私の勤務先<かなりや>も法制度的には無低だが、悪質な無低は無くなっていってほしいという願いを共有している。利用者が悪質と感じることのないようベストを尽くすことで、悪質無低とは異なる選択肢を提供し続けていきたいと思っている。いちおう、写真もあげておく。悪質かどうか、ご判断いただくために。
本稿では、無料低額宿泊所をめぐる言説の偏りと権力性について(それとなーく)問題提起を試みる。
認知的棄民化の危うさ
冒頭に引用した記事は、ヒリヒリする危うさを伴う。23歳男性は、この無低に入居中の高齢男性がコロナで亡くなったと警官に聞かされる。入居者の3人に1人がコロナに感染し、他にも亡くなった方がいたという。
無低スタッフの私は思うのだ。
亡くなった高齢男性も、この23歳男性と同じように、住所不定状態で接種券を受け取れずワクチン接種ができていなかったのかもしれない。
無低利用者には、職員が病院に行くように伝えても、なかなか受診しない方は珍しくない。面倒くさいだけなのか、以前、医療機関でイヤな思いをしたためなのか。このまま死んでしまいたい思いを胸に秘め続けてきたのか。新型コロナのリスクをよくわかっておらず、風邪だと思っていたのか。
実際のところは、わからない。
別の例も示そう。古い記事だが、無低の簡易個室(間仕切りで1間を2間として利用する)を批判する記事では、「隣人が奇声を発して暴れるために夜に眠れず」部屋を替えてほしいと頼んだが、運営者に応じてもらえず他の無低に移った方のエピソードがあった(その後ネット記事では「隣人が奇声を発して暴れるために夜に眠れず」といった部分は削除された)。
この方の疲弊や恐怖は察してあまりあるものがある。
だが私は「奇声を発して暴れる」方がどんな状態にあったのかも気になるのだ。精神疾患を抱えていたのか。ならば、なぜ無低にいるのか。医療機関から断られたのか。過去の経過などあって出禁を申し渡されてしまったのか。それとも本人が受診を拒否し続けているのか。
このように無低批判の危うさは、ある入所者の恐怖や疲弊、絶望感に寄り添おうとすればするほど、別の入所者もまた尊重されるべき人間であることが認識からすっぽりと抜け落ちてしまうところにある。ゲシュタルト心理学でいう「図と地」のように、ある入所者の視点をとった瞬間、他の入所者たちは「劣悪な住環境」の一部とされ、人間扱いされなくなることがある。
私はこれを「認知的棄民化」と呼んでいる。
無低入所者の多様性。
それはいま流行りの「多様性の尊重」「ダイバーシティ&インクル―ジョン」といった価値や思想とは異なる次元にある。
まずは――構造的要因はいったん措くとして――現象として多様なのだ。
まずは、ただ単に、多様なのだ。
認知的不協和からの逃走
無低入所者の多様性についてもっともよく知っているのは無低スタッフだろう。だが私見のかぎり、無低スタッフ経験者の視点からこの問題を論じたのは吉田涼「貧困ビジネス施設の実態」(稲葉剛ほか(編)2018『ハウジング・ファースト 住まいからはじまる支援の可能性』山吹書店 所収)だけである(他にあったら教えてください)。
さらに奇妙なことに、悪質無低を問題視する報道や調査研究は、無低の現地調査を経ることなく行われてきた。データソースはほぼ、悪質無低を退所した人々へのインタビュー・質問紙調査と統計調査、福祉事務所への質問紙調査に限られ、無低スタッフへのインタビューや質問紙調査の結果を私は見たことがない(あったら教えてください)。
無低は社会福祉法に定められた「生計困難者のために、無料又は低額な料金で、簡易住宅を貸し付け、又は宿泊所その他の施設を利用させる事業」であり、開設には都道府県の届け出が必要である。なので無低の数や場所は行政が把握している。
2020年9月の厚労省調査では全国の無低の数は608施設となっている。もっとも多い東京都でも141施設。質問紙調査なら不可能な数ではないだろう。
https://www.mhlw.go.jp/content/000815988.pdf
それにもかかわらず、無低の直接的な調査はなされてこなかった。当法人には厚労省の職員が視察に来たことがあるが、それに基づいた具体的なアウトプットはなされていない。<かなりや>に見学に来た研究者や識者もいるが、たった2人を除いてその後二度と連絡は来ず、論文等の成果物も送ってこない。見学に来た識者から「ここは、見なかったことに」と言われたことさえある。
この反応をどう理解すればよいのか、私個人は長年当惑し続けている。
無低の直接調査をしてしまうと、何かが崩壊してしまうとでもいうのだろうか?悪質無低ではない無低の存在を受容できないようなマインドセットがあって、認知的不協和から全速力で逃走し続けているのだろうか?
福祉のなかのオリエンタリズム
直観的な立論で恐縮だが、無低の直接調査を行わず「見なかったこと」にする一方、間接的な調査を行い、社会に広く見識を発信する様相に、私はサイードの「オリエンタリズム」を思い出した。
オリエンタリズムを念頭に、無低をめぐる言説のあり方を見ていきたい。
題材は山田荘志郎『無料低額宿泊所の研究』である。無低を扱った唯一の学術単著なので、他の言説への影響力が大きいと推察されるからである。誤解ないよう強調しておくが、ここで検討したいのは無低をめぐる慣習化された「語り口」であり、それに基づく認識の限界であって、著者個人を批判する意図はまったくない。
本書は序章、第1~7章の本論、終章からなる。第1章は歴史研究、第2章は政策動向を扱い、第3~7章で調査分析を行っている。著者はこのような問いを立てている。
冒頭から「『貧困ビジネス』と呼ばれるような、社会福祉法の理念と乖離した施設」の出現が「無料低額宿泊所問題」と命名されている。
だが、この問いの立て方は妥当だろうか。
本書の無料低額宿泊所の定義は揺れる。「本書では、無料低額宿泊所を、社会福祉法が規定する『生計困難者のために、無料又は低額な料金で、簡易住宅を貸し付け、又は宿泊所その他の施設を利用させる事業』(第2種社会福祉事業)として捉える」とするものの、法制度的に無低ではない無届施設も、届出施設である無低も「はたしている機能や役割、抱えている課題はほぼ共通している」ので、問題意識に照らすと「届出の有無はそれほど重要ではない」とし、「問題意識としては無届施設も含んでおり、また部分的には無届施設も分析対象としている」という(p.19)。
「無料低額宿泊所問題」という問題設定は、冒頭から挫折しているのだ。
また「届出の有無はそれほど重要ではない」というのは、無低スタッフとしては困惑するところである。他はどうかわからないが、当法人にとって届出の有無は重要だからだ。補助金も助成金もない独立採算のもと、行政の実態把握に協力し指導監査に服することで、福祉事務所はじめ他機関の人々、利用者の信頼を高め、安心してもらいたいと考えているからだ。
一方、著者が「それほど重要ではない」とする理由は「はたしている機能や役割、抱えている課題はほぼ共通している」からである。これも一理ある捉え方だとは思う。ただし、政策策定という文脈における「上から」の「分析目線」においてであるが。
いずれにせよ、無低の直接調査が行われないかぎり、無低をめぐる物事のうち「何が重要か」を取り決めていくポジションは、社会に広く見識を発信するメディアや研究者、知識人が独占することになる。オクシデントから見たオリエントと同様に、無低のスタッフは自分のことがわかっていない愚かな存在なので、直接会って話を聞く必要もない、メディアや知識人がそれを定義し分析し発信してあげましょう、という構図である。
「正しいか間違っているか?」ではなく「それを表象するのは誰か?」「その正当性はどこから来るのか?」「習慣化された表象はどんな権力構造と絡み合っているのか?」という問いを立てねばなるまい。
「無料低額宿泊所問題」への収斂
「第3章 無料低額宿泊所調査の再検討」で用いられたデータソースは、2010年に厚労省が行った第2回無低および法的位置付けのない施設の実態調査のデータだが、厚労省が公表したものと、著者が開示請求で得たものとの双方を用いている。
分析では例えば、「入所者のうち生活保護を受けている者の数は全施設の合計が1万3737人であり、入所者の保護率は91.4%となる」「保護率100%の施設は285施設(58.4%)であった」とある(p.104)。
「全国の無低利用者の保護率は91.4%」と見ると、無低利用者の9割ほどが生活保護制度利用者であることがわかる。他方「保護率100%の施設は58.4%」の数字からは、無低の4割ほどに「生活保護制度を利用していない入所者」がいることがわかる。全国の無低の4割に、年金や貯蓄などから利用料を払っている利用者が、少数ながら存在することを物語っているのだ。
だが、著者はこのことについては言及しない。
本書に限らず「悪質無低が無くならないのは、無低と福祉事務所がウィン・ウィンの関係にあるからだ」という見地に立つ言説では、必ずといってよいほどスルーされる事実である。
無低と生活保護の自治体行政との(ローカルな)「共犯関係」を確信し、国家レベルで(i.e. ナショナリスティックに)それを「正す」構図のもとでは、生活保護の自治体行政が関与しない自費利用者は無視してよい存在、場合によっては論理的一貫性を保つうえで都合の悪い存在となってしまうからであろうか。
続けよう。「全入所者に個室が用意されている施設は298施設(61.1%)であった。また、個室以外の居室が1以上ある施設は179施設(36.7%)であった。なお、この179施設の77.1%にあたる138施設は、東京都が所管している施設である」(p.105)。これが示唆するのは、全国規模では6割以上の無低が個室化されている反面、個室化が進んでいない施設の8割近くが東京都に集中していることである。
だが著者はこれを「東京の問題」として掘り下げないまま、全国規模の「無低問題」として位置づける。「東京問題」と「無低問題」を切り分けないのも、悪質無低批判言説一般に見られる特徴のひとつである。
このように、データ解釈や記述から「東京の問題」というローカルなニュアンスが消されてしまうのだ。
そして著者は結論づける。「これらの結果は、多くの無料低額宿泊所が、ガイドラインが求める『使用料に見合った居住環境の確保』『近隣同種の住宅に比べて低額な使用料』といった基準を満たしているとはいいがたいことを示しているといえよう」(p.113)。
こうして「東京の問題」は暗に「全国規模の無低の問題」に置換されていく。
話を急ごう。「第4章 無料低額宿泊所入所者の現状」に進む。本章のデータソースは2010年に貧困ビジネス対策全国連絡会が実施した無料低額宿泊所等入所者調査結果である。2010年10月1日~11月30日に開催された「ホームレス法律相談などの機会に、無低入所中の方、過去に入所経験のある人へ調査協力を依頼し、調査票を用いた面接調査を行ったという。
回収した調査票は計150票。有効票数は138。「1万3737人」規模の無低入所者の現状を調査する母集団は、わずか138票なのである。
138の内訳は、埼玉20、千葉13、東京77、名古屋25、京都1、大阪2。やはり大多数は東京であり、全体の5割ほどを占めている。東京・埼玉・千葉の首都圏の合計は110票、7割以上である。つまりここでも、東京あるいは首都圏の問題が、全国規模の無低の問題に置換されている。
この母集団には地域的な偏りがあることも、分析上は考慮されない。
さらに気になるのは権利侵害に相当する経験についての回答結果である。
「他の利用者から暴力をふるわれた」「他の利用者から暴言を吐かれた」「宿泊所内で盗難にあった」の3項目の合計は58となる。すでに述べたように、無低の入所者は多様である。ある入所者にとって、他の入所者が「劣悪な住環境」の一部となってしまうことが示唆されている。
しかし、この少ないデータから導き出されるのは次の結論である(p.144-147)。なお、太字にしたのは私である。データ数の少なさと、導き出される結論の間の落差に注目していただきたいためである。たったこれだけの、しかもローカルなデータから、このようなことを(暗にナショナルなレベルで)結論づけてよいのだろうか。
入所のルートは「福祉事務所紹介」と「路上での勧誘」が大半
福祉事務所に嘘の説明をするように求められている事例もある
不透明な経費を徴収され、説明も不十分な例がある
入所者の7割が食事内容に不満を持っている
居室が「個室」であると認識されているのは半分以下
入所者が宿泊所に期待しているのは「屋根とメシ」である
入所者の7割はすぐに転居したがっている
以上のように、「無料低額宿泊所問題」という問題設定が冒頭から挫折しているにもかかわらず、見出された「問題」は「貧困ビジネス問題」でも「東京/首都圏の問題」でも「入所者の多様性の問題」でもなく、「無料低額宿泊所問題」という枠組で語られてしまう。
繰り返すが、これは本書にかぎったことではない。本書はあくまで典型であり事例にすぎないのだ。
なぜなのだろう。なぜ、現場の声を聞こうとしないのだろう。無低スタッフは自らを語ることを許されず、声をあげてもその声はかき消され、「無低=劣悪な施設」という一方的な言い回しのなかに閉じ込められてしまう。
規制強化によって悪質無低が撲滅されたとしても、悪質無低以外の無低も一緒に滅んでしまえば、認知的棄民化の対象となった人々は、どこでどうするのだろうか。
悪質無低を批判するメディア関係者、研究者、識者は、そこまで考えているのだろうか。もし考えていないのなら、どうかご一考いただきたい。
ちゃんと現場に足を運び、経営者だけでなく入所者、スタッフ双方の話を聞き、空間をその目で、その身体で感じていただきたい。どんな利用者がいて、利用者間にどのような齟齬があり、その齟齬はどのような空間内で生じており、スタッフは限られた時空間のなかでどう対処しようとしているのか。
協働はきっと、それらを共有するところからはじまる。
それにより、誰かを助けようとして誰かを「悪質な住環境」の一部に落とし込むような認識の陥穽におちいることなく、論旨に都合の悪い利用者の存在を無視することなく、本当は首都圏ローカルの問題をナショナルな次元まで膨らませることなく、よりよい方向を探ることができると思うのだ。
本質的には「正義」をめぐる政治闘争の問題なので、聞く耳など持ってはいただけないことなのもわかっておりますが。厚労省マターと国交省マター、内閣府マターとのせめぎあいとか協働関係とか。ごまめの歯ぎしりなんですけれどもね、それでも分析だけは続けたいなあ、とか。
おわりに
現場が自らを語る権利を奪われ、権力をもった他者に一方的に表象され分析され、政策を策定され誘導され、スタッフも利用者それぞれ、個々人が指導の対象とされる福祉オリエンタリズム。無低にかぎらず、福祉の世界では非常によくあると私は感じている。
無低の場合はまだいい。無視されてきた分、期待されていない分、自由がきく側面もあるからだ。
高齢や児童や障害といった他の分野では、現場人は常に「知識不足」を指摘され続け、自己研鑚を求められ続け、指導の対象とされ続けた結果、自分が語る言葉を自ら既存の鋳型にはめこんでいくような、権力にとって都合のいい存在になっていくように感じる。飼い慣らされていくように、構造が組みあがっているのだ。
そして、自らは「正しいこと」をしているつもりで、権力にとって都合の悪い利用者の存在の否認ーー認知的棄民化ーーに加担していく。
こうした構造のなかで、認知的に棄民化された方が、ときに無低に「送り込まれて」来たりする。このことについては、いつかまた、脳内スタンバイができた時点で述べたいので、予告に留めておこう。
本稿を書いているうちに、どこかの無低スタッフが作ったスレッドを見つけたので、締めくくりに貼り付けておこう。
「んー」と思う表現もあるけれど、それでも好感を抱いてしまう。
「ウチではどこにも行けなくなった人たちがなんとかギリギリ生きられる最低限度の生活は保証します」。
やあ、なかなかいいじゃん!
施設はいろいろだし、悪質なところもまだまだあるとは聞くけれど「こういうのが無低の誇りだよね!」とも思うのだ。
ダメですかね…?やっぱ、こういうのって、「見なかったことに」したくなっちゃいますかね?
(おしまい)