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僕と仏教

今、というか結構前からずーっと僕の中で仏教がブームです。
この先ずっと続きそうな感じです。

そもそもは、インチキ宗教にどっぷりの母方の家系から身を守るため、仏教の知識をウェブ上でかき集めていました。それが土台になっています。

で、ある日、X(当時はTwitterだった)でタイのお寺で副住職をしてらっしゃるプラユキ・ナラテボー師による以下のようなツイートを発見しました。

今は過去の集大成。今を善く生きられるとき、自ずと過去の一切は今の善き生のための「因」となる。 未来とは今の「果」。今を善く生きられるとき、自ずとその「因」により、未来にも善き生という「果」が待ち受ける。 今を善く生きることによって、過去と未来の一切が善き生に染め上げられるのである。

上記のツイートで「あっ!」となりました。
「今が「今を善く生きられるとき」でないと駄目なんだな!」
衝撃を受けました。

それまでは、母が入信しているインチキ宗教の粗探しをするのを主な目的として仏教を調べていたのですが、ここから僕にとっての仏教が「武器」から「バックボーン」へと変化してゆくのでした。


そして少し経ってスッタニパータやダンマパダを少しずつ読むようになっていたところにセカンドインパクトが来ます

佐々井秀嶺の存在と、ビームラーオ・アンベードカル博士の存在です。
その偉大さに、目の玉が飛び出そうでした。
虫けら以下のように差別されるヒンズー教の不可触民を救うために奮闘されるその姿は、普段そんなに驚く事もない僕をして「やっべぇこれ、うわ!仏教すげー!」と言わしめました。もうその存在にぶつかったら英雄視せざるを得ないです(その後ささやかな喜捨をさせて頂いたら佐々井秀嶺師が大写しになったブロマイドみたいな葉書きがお礼の言葉とともに送られてきました。ありがとうございます)。
「きっとお釈迦様も差別と闘われてたのかもしれないな」と思うようになりました。

そうして「わぁ、すげーな」と思いながら日常を送っていて「ああ、母方の家系がどっぷり浸かっているインチキ宗教も、僕を仏教に向き合わさせる因であったのだな」と思い始めたその直後サードインパクトが来ます

Xでもフレンドリーに接して頂いて、とても身近に感じる方なのでお名前を挙げるのが少し照れくさいというかそんな感じなのですが、日蓮宗の太田日瓏上人です。
とてもまっすぐに神仏と向かい合っていて、しかも修行から得た果実をXで惜しげもなく解説なさるという太っ腹。身近に感じさせる人間味もあり、決して偉そうにせず、凄味はあるのだけれど柔和で、生きる上でお手本にしたいなと思わせるところが多い方です。

今まで謂わば英雄がタイやインドという遠くにいて、それを日本から眺めてスゲーと言っていた僕の、とても身近な所からインパクトを与えられて驚いてしまいました。
コワモテでもおかしくはないくらい物凄くまっすぐなのに柔和なのはなんでかなと思っていましたら、ついさっき『妙法蓮華経如来寿量品第十六』から「質直意柔軟」という言葉をツイートされていました。
曰く、

「正直、素直」に教えを聞き実行するだけではなく「意柔軟=心を柔らかく」と言う言葉がなぜ必要なのかが肝心です。教えをただ真面目に真っ直ぐ誠実にだけであれば、「意柔軟」は必要ありません。がこれが人生、教えに必要なのですよ

僕はたまたま立正大学にいました。文学部でしたけどね。
そして、ここまでキーになっているインチキ宗教は、インチキに法華経を使っていましたので「妙法蓮華経」だけは本を持っていました。1800円のやつ。平楽寺の訓読のやつです。
なので、太田上人の仰る事と妙法蓮華経の該当部を照らし合わせて理解できるという「多分、人生は苦しくても無駄はないんだろうな」感があります。
いや、寧ろ「アンテナ張ってれば莫大な利益が転がってくるんだろうな」感があります。

只今、絶賛サードインパクト中ですが、この先どんなインパクトが待ち構えているのか、どんな気づきがあるのか楽しみで仕方ありません。
それは追々綴っていくとして、とにかく面白がって生きてるよ!って事で〆させてもらわないと文章が長すぎてしまいますので、これにてジャイビーム!

なかぼうしゅんぺいた 拝





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