ブッダガヤでPTSD再発しかけた話
ブッダガヤでの滞在を始めてまだ日の浅い頃、宿の外へ出たところで一人のインド人に話しかけられた。アショーカと名乗るその男は、齡は四十後半と見えるのだが、少年のような小さい体をしておりちょっと異様な雰囲気を醸し出していた。しかもその両耳は西洋ファンタジーでお馴染みのあの架空種族「ゴブリン」のように尖っていて、その体の小ささもあって本当にゴブリンのようだった。
更に異様だったのはその血走った目だ。たまに笑いながらこちらを横目遣いに見上げるときなど、まるで地獄で責め苦を受けている真っ最中の罪人がそのあまりの苦しさから思わず救いを求めて天を見上げた、とでもいうような気迫だった。同じインドでもよその土地では絶対に見かけたことのないその異様な風貌に思わず愕然とした私だったが、しかしこの男、口を開くと見た目には反し実にカジュアルで、
「コンニチワ!アナタ日本ジン?」
と、とても友好的態度で話しかけてくる。まるで地獄で責め苦を受けている真っ最中の罪人が、
「あ、羅刹さん!ちょいとその手を止めておくんなせえ!あっしちょいとヤボ用があるんでごぜぇやすが一寸抜け出してきてもよござんすか?!」
とでも言って現世に舞い戻ってきたようなカジュアルさである。
怪しげなインド人に目が無い私はこの「アショーカ」にすぐさま魅了されたのだが、さすが地獄の責め苦を生き抜く男である、そんな私の気分を地獄の本能で察したのだろう、
「ワタシノバイクデツレテッテアゲルヨォ!」
「ドコドコマデ800rpデイイヨォ!」
とすぐさま誘いをかけてきた。
「なんだこいつもこのパターンか」
ブッダガヤではこの手の声かけが実に多く、日の浅いながら私はすでにうんざりしていた。
やつらの誘いに乗ったらどうなるかは私も定かではないが、恐らくは良くて多少ぼられるだけ、または土産屋に連れ込まれてぼったくり商品を買わされたりというパターンもあるだろうが、運が悪ければ最悪人里はなれたところで身ぐるみ剥がされるなんてこともあるかもしれない。実際そんな事件があったといつかどこかで耳にしたことがあった…。
しかしまあ、仮にそんなことがあったとしてもこちとら身長180超・体重70kgの体だ、大抵のビハール人などわたしからしたら稚児に等しい。
「アヒンサー!!」
とでも怒鳴り散らしながらなんちゃって武道の構えではったりかませば、小柄なビハール人など穴という穴からカレー噴き出して失神するだろう。
実際たまに町中でするどい目付きで睨まれたりすると、
「おう…やろうってのかい…そんなに分からせてほしいのかい…本当のカレーの味を…」
と、蛮勇を迸らせるほどだったのだが、そうは言ってもやはり外国人が暴力沙汰はいけない。そもそも仏道の探求者であればそのような破戒に至りかねない状況は回避せねばならない。それこそが真の菩薩道というものではないか、と思い直した私はここは穏便に済ませようと、
「しばらく自由な時間がないから、余裕ができたらこちらから連絡するよ。だから番号教えて」
と、自分から電話番号を紙に書いてもらって受け取りながら、分かれた直後、すぐさまその紙を投げ捨てた。
そうして「破戒」の危機を丸く収めたと思っていた私だったが、その後ここブッダガヤには1ヶ月も滞在することになり、その間このアショーカは街中にいる私を何度となく目ざとく見つけては、
「アレー!タカヒロサン!オヒサシブリネ!ナンネンブリデスカァ!?」
と毎度毎度、野蛮すぎるビハールジョークをかましてくるのでうっとうしいことこの上なかった…。
「電話シテクダサイ!マッテルヨォ!」
(ちなみに奴の提示した「ドコドコマデ800rps」という値段は後日調べたところ相場の4倍くらいだった…)
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しかしそんなある日の事である。マハーボディテンプル近くの喫茶店でコーヒーを嗜んでいた時、またしてもアショーカに発見されたのだが、どういう訳か登場一番爆笑している。
その時私はネパールのボダナートで購入した手持ちマニコロを片手で廻しながらコーヒーを飲むという「ハイブリッド喫茶」を嗜んでいたのだがどうやらそれがツボに入ったらしい。
「タカヒロサァァン、アナタソレ!ニホンジンニ、ミエルジャナイ、ダヨ!」
「チベットジンニ、ミエルダヨォ!ギャハハハ!!」
地獄の責め苦を耐え抜く合間に爆笑できてさぞ嬉しかろう、と満足感を覚えながらも相手にせず立ち去った私だったが、後日、たまたま入ったチベット市場でチベットの民族衣装が売られているのをみてその時のアショーカ男の言葉を思い出した。
そうして私はあることを思い付いた。いっそ民族衣裳を着こんでチベット人に寄せていけばチベット人に仲間として受け入れられ、友達が沢山できるのでは?と。例えば以下のようなことである。
1、チベット人「ホンニャラハンニャラ」
2、わたし「ごめんチベ語できないんだよ。」
3、チベット人「ええ?君もしかして日本人かい?」
4、わたし「そうだよ」
5、チベット人「面白いやつだな!友達になろうぜ!」
という具合である。いま改めて文章にしてみると4と5の間に大いなる飛躍があることに気づくが、当時インドの混沌の真っ只中にいた私にはそんなことに気がつく道理がなかった…。
そうして思い立ったが吉日、すぐさま民族衣裳を購入したわたしはその数日前に購入したばかりの丸メガネのサングラスを衣裳に合わせ、再びハンディマニコロを手に街を練り歩き始めた…
…
…
…
…のだがどうも様子がおかしい。すれ違う人皆が皆異様な目で私を見てくるのである。それも出家者在家者問わず、である。それどころか老いも若きも、男も女もすべてが同様に、
「お、おいあそこみろ!変なやつが歩いてるぞ!!」
と…。完全に変質者扱いである。こんなことでは友達100人どころではない…。
「何かがおかしい…いやきっとこれも試練なのだ。弱き心を乗り越えるための…!!」
そう考え、無心になってマニコロ回しながら狭いブッダガヤの街を連日練り歩き続けたわたしだったが、ある日道端でだらけているインド人ホームレス一家にすら指を指されて笑われたことで、とうとう心が折れた。
はるばるインドへ来てもまだ私はこんな目に合わなければならないのかと深遠なる絶望の淵へと堕ちたのだった…。(この「また」については闇が深すぎるので触れないでいただきたい。)
そうしてある朝、悪夢にうなされながら目が覚めた私は、カソリック詩人八木重吉の言葉
かなしみは しずかにたまってくる
を反芻しながらその悲しき民族衣装をそっと、バッグの奥へとしまった…。
(そのときわたしのこころの暗がりに静かな秋の縁側があらわれた…)
(そこには一つの「琴」が置いてあって…)
(秋の日差しを受けながら…)
(ひとりでに音楽を奏ではじめるのでありました…)
(世にも悲しげなPTSDの音楽を…)
完