短編小説「貌」(#2000字のホラー)
目の前に女がいる。艶めいた長い髪が腰まで届いている、執拗なまでに櫛を通したのだろう、毛先のかすかなカーブまで、磨いた刃物のように鈍く光を跳ね返している。
細く高い鼻梁、春に舞う蝶を思わせる睫毛。視線がぶつかるとその水晶体には私が映し出された。女として、生命として、完全に敗北していることを私は思い知らされる。
私はその女を眺め続けた。見ていたいとは思わなかったが、なぜか目を離すことができない。
いつから眺めているのか、時間の感覚さえ曖昧になっていた。いったい私はなにを凝視しているのか。
女は時折、目をふせ、そして私に視線を送る。表情は変わらない。だが、一秒にも満たない僅かな瞬間、女の口角が持ち上がる、頑なに合わされていた上下の唇に隙間ができる。
そこにあるのは侮蔑なのだろう。あきらかにその女は私を笑っていた。だが。そのわずかな隙間のなかの漆黒は何かを思い起こさせた。
その重い扉をこじ開けた向こうにあるのは虫食い穴のように見えた。そこから小さな羽を背負い始めた、小虫たちが溢れ出てきそうな錯覚にとらわれた。
その女は私を見てはいない。私と私の背後にある変色した壁、その中間にある空白を見ている。そしてまた目を閉じる。何度繰り返したところでそれが変わるわけでもないが、それでも私がそれを続けるように、女もそれを続けている。
傍から見れば出来の悪いロールシャッハ・テストのように見えるかもしれない。私と女は対になっていた。
私は目の前の女を知らない。何も知らない。だが、私にはその女の違和感がわかる。
美しい女だ、だがその美しさは度重なる改良の末に手に入れた後天的で人工的なものだ、バグを見つけるたびにアップデートを繰り返すゲームやパソコンのソフトのようなものだ。
大脳は単なるシステムだ、人間が機械であることはそれを要としたものが人間であることからも自明に過ぎる。人間は自分に似た何かを作ろうとし続けてきた。しかし、その結果として、自分に似たその便利な何かは、私たちから仕事を、愛情を、言葉を奪ってしまうのだ。
性能に差はあれ、私も目の前の女も、人間であり機械だ。
だからだろう、私たちは自分以外に興味を持たない。どれほど言葉と智恵を重ねてもそれは変えることができない。私たちが他人に払える興味は性と死しかない。誰かのセックスに嫉妬と嫌悪を抱きながら、しかし、新たな生命の誕生には抗いがたい無常のよろこびさえ感じる。
もはや、女は退屈そうにすら見えない。手にしたものと手放したものを見比べることに感傷的 もない。だが盲目的に未来を見ているわけでもない。そんな好都合がないことを既に知ってしまった大人なのだ。無邪気な子供ではないからだ。
女は過去を眺めている。切り刻んだフィルムを不器用にテープで繋ぎ合わせたように既に終わった物事を反芻し、再び切り刻み、火を点け、無きものにしようと試みる。
冷笑を浮かべ、冷徹な視線でもって、冷酷なまでに冷静に。
記憶ある限りのすべてを書き換えようと決めている。そこにあるのは虫食い穴を見つけ、それを塞ぎ、虫そのものを駆逐する機械となる。その所業は害虫と大差なく、益虫とも言い難い。
よく見れば、女の貌には無数の穴が見てとれた。穴はみるみる大きくなり、目を、鼻を、口を、頬を、漆黒へと塗り替えてゆく。
私は思わず悲鳴をあげた。女もやはり私と同時に悲鳴をあげた。
もう戻ることはない。一時間ばかりの嗚咽の後、顔をあげると女はやはりそこにいた。開いていたはずの穴は塞がっている、跡形もなく塞がっている。微かに浮かべた笑みにどうにか優雅さを保とうと試みる。
私は気づく。
眼前には誰もいない。あるのは鏡だけだった。吐き気を覚えて立ちあがろうとして、私はその場に倒れ込む。そのとき、頭に激しい衝撃が走る。花瓶が倒れて、割れていた。痛みに手をあてると、一瞬で真っ赤に染まってしまった。ぼんやりとし始めた意識を拾い上げるように私はかつての私のことを考えた。
そこには、決して目立つことのない、田舎の小さな女の子が笑顔さえ浮かべることなく、ぼんやりと映っていた。
その凡庸な容姿に、私はまたも悲鳴をあげて、そこでシステムは終了した。
そして今後も矛盾は続く。明滅する光のなかで、私はその矛盾こそが生命なのだと思い知る。
清濁。明暗。美醜。愛情。友情。生死。
そのなにもかもと同じ線上で呼吸してきたのだ。
本文、ここまで1813字です。
drawing and words by billy.
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