【エッセイ】真夏の日々と僕らの映画。
遠く遠くへ歩いてみようと試みる。
ある晴れた土曜の夕刻。
行きたい場所、行かなくてはならない場所があるわけではなく、ただただ無目的に歩を進めてみたいと思う景色が眼前に広がる。
その橋は僕が学生のころ、友人と、当時付き合っていた恋人と「映画を撮ろう」と訪れた夏によく歩いた、海に繋がる川に架かる橋だ。
花火の時速を調べ、真横に飛ばしてそれを後方からクルマで追ってカメラに光をおさめようと毎夜、無人となっていた住宅街の空き地へ侵入していたころの話だ。
……その夏は台風の上陸も早く、直撃のたびにカメラを担いで海へ向かった。
ボンクラ学生のやりそうなことだといまになれば思う、しかし、そのころはそれが何より楽しいことだった。
夜になれば集まり、朝になるまでくだらないことに時間とエネルギーを費やした。それを許される年代でもあった。
僕たちは育ちの悪い子供ではなかったが、しかし、決して誉められた子供でもなかった。
地方特有のヤンキー文化を鼻で笑いながら、だが、流行しているものも興味の対象にもしなかった。意図的ではないが、「はみ出してしまった連中」だったので、ロックンロールや映画などカウンターカルチャー(当時、既に死語だったが)、アウトサイダー・アートを好んだ。
鼻息は荒かったが、荒いのは鼻息だけだった。僕たちはどうしようもなくボンクラだったのだ。
意味なんてどうでも良かった。
意味のありそうな、意味深そうなものをカッコ良く思ったのだ、本当のところ、知りもしない誰かのメッセージを聞き取ろうなんて思わなかった。
他人なんてどうでも良かったのだ。僕たちは僕たちが楽しむことができれば、それ以外のことには興味を持たなかった。
傲慢ではある、生意気だと何度も言われた。それに対して「どうでもいい」と突っ張ねる態度を崩さずにいられる程度の向こう見ずさも持っていた。
怖さなんてなかった。
時は過ぎる。
誰もに平等に。変わらずロックンロールは好きだが、昔に比べると騒々しい音楽は聴かなくなった。静かな映画を好み、タバコはやめることができた、そしてビールよりはハイボールを好んで飲む。ビールの甘みが苦手に思うようになった。
変わらずにいるようで、変わらないものはない。僕たちは惑い、揺れ続ける。そして、怖くなったものを指折り数える。
「ブレないから良い」、「ブレなさがカッコいい」なんて文言をよく見聞きする。そんな者に憧れるのなら石像をずっと眺めていればいい。風にも雨にも、あらゆる世論にも風潮にもブレずに佇んでいることだろう。表情すら変えず、クールに立ち続けてくれるだろう。
僕たちは生きている。
惑い、迷い、揺れて。良いも悪いもない。それが僕たちそのものじゃないか。
揺れて惑い、迷うからこそ、僕たちは自分たちが人間であると知る。
そして、完成しなかった映画はそのフィルムだけが残っている。ろくに考えもせず、勢いだけで撮影したそれは記念にもならなかった。
名前のない男と女がそれぞれに交わることなく、同じ場所へとひたすら歩いてゆくだけの話だった。まったく、どうして何も考えずに映画が撮れると思ったのだろう。
荒いのは鼻息だけではなかった。脳みそも相当に荒かった。
あの夏。
風に揺られ、ざわめきながら、本当に僕たちは誰よりもよく歩き続けた。7月と8月は、そんな季節なのだ。
僕たちはあのころの少年と少女を、いまも胸に飼い続けている。彼らは飼い慣らすことができないので、いつも、突然にいまの僕らに冷たい視線を送るのだ。
追伸
それでも、あの夏の日々は、おそらく一生忘れることのない、かけがえのない季節でした。いつかまた、あんな夏がくると信じてもいます。
photograph and words by billy.