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短編小説「国境線上の蟻」#4


 久しぶりに外を歩いた。季節は移る。風が肌を刺し、吐く息は白い。北風。間もなく冬。君は小さなころから、生温い季節を嫌った。切り刻むような風のなかを歩いていることを好んだ。排気ガスを吐き出しながら行くトラックが空き缶を跳ねる。どこかから犬の遠吠えが届く。舗装がひび割れて、砂地が剥き出しになっていた。横断歩道の白線が剥げて消失しつつある。寒空の下、赤いちょうちんに集い、安酒をあおる貧民たち。そのもう少し先の点滅する街灯の下には街娼たちが欠伸をしていた。どこにでもある、しかし、ほんの少し前まではあまりなかった光景。人口減は文明退化をもたらし、かつて、斜陽と嘆かれたこの国は、いまや、落日と言われるまでになった。
 仕方ない。そう君は思う。栄枯盛衰って言うんだっけ。人間だってそうだろう。若く美しい時代を過ぎれば、皮膚が垂れて、髪は減り、あちらこちらに不具合が生じるようになる。俺だって、生きていればそうなるだろう。老いを知るまで生きないのは、その意味では悪くないのかもしれない。
「誰か!」
 背後からの叫び声に君は振り返る。青い顔をした、ついさっき通り過ぎた街娼が駆けてきた。安いサンダルが穴だらけのアスファルトを叩く。
 女は君の隣を駆け抜けた。次いで、半裸の中年男が腹を揺すって追って来る。振り上げた手には刃物だろうか、白濁の月の光に、鈍い反射光を放つ。なんだ、既知外か。君はとうに見慣れていた。訳の分からない雄叫びを発して、男は君の横を追い抜こうとした。そのとき。君は、足をかけて、その男を転倒させた。増えた体重や、衰えた筋肉、下半身を忘れて忘我で走っていたのであろう。男は三メートルほど中空を舞って、顔面から着地した。頚椎が砕けた音を聴いた。声を聞くのも煩わしく感じた君は、男が起き上がるよりも早く、懐の拳銃を握って、そして、後頭部を狙撃した。突然に頓死の男は、仰向けになったまま、無駄な肉のついた尻をひくひくと震わせたが、五を数えるより前に落命していた。
 君は思う。
 ついさっき、潰れたトマトかと勘違いしたのは、死んだ子猫の頭だった。胴体はカラスにつつかれていた。人より、動物のほうがいくらかマシじゃないか。そのカラス二羽は、君の気配に気づいて、電線から、君を非難しようと喚いた。
 君は思う。
 あいつは、俺には手も届かない、ありとあらゆる全てを手にしているんだろう。
 最底辺と最高部の人間だけがカネの価値を知っている。この世の全てとまでは言わない。言いたくない。だが、どうしようもないことに、カネはほとんどこの世の全てだ。それは理想では踏み込めない領域だ。そして、それは、ヒトが創造した最大のシステムだ。カネの価値は人の価値を超越する。人は人よりカネにひざまづく。
 おまえだって、そうだろう? 少なくとも、俺はそうだ。おまえらに下げる頭はない。懇願なんて無駄だ。しかし、カネのためなら頭を下げるだろう。そして、ひざまづいた眼の前の、土や小石に復讐を誓うだろう。
 君はそのことを知っている。もしも、運命があるとすれば、それを与えた神を欺く。そうするしかなかった。これからもそうするだろう。
 親でも、血縁でも、仮に友であったとしても、俺はおまえを殺しに行く。
 タバコに火をつけた。深く吸い込む。そして思う。戻りたいんだ。動物に。俺たち人間は、いや、人間なんて、なにを偉そうに。殺戮をやめて、否定にかかる、最底辺だろう。殺し合えないなら、殺されるぞ。俺がそれを証明してやる。
 君の背後には、温暖な地域に生きているくせに、無駄に脂肪をつけて、女を見れば追い回す、腐肉があぶくを吐いて、倒れていた。すぐに死ぬだろう。君はその死体の肩を蹴って、仰向けにさせた。潰れたトマトより醜い顔だった。やがて、その死骸を、飢えたカラス共がつつき合うのだ。
 何もかもを、食え。跡形なく、荒野に還してくれ。弱い奴は捕食者に食べられてしまえばいい。
 君はもはや、思いもしない。


 前回まではこちら。

つづく。
photograph and words by billy.


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ビリー
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