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【短編】ジャスト・フレンズ 3 ~健ちゃん東京ラプソディー~
入学式のときは満開だった桜も、
いつの間にか淡い緑色一色の葉桜になっていた。
多摩丘陵の丘の上に立つ簡素なアパートの二階から、
ギターの音と若い男の歌声が聞こえてくる。
1976年の春、
宮森健次がギター1本だけ持って引っ越してきたのは、
東京都と神奈川県境が入り組んだ多摩丘陵。
小田急線の T 駅から徒歩10分。
まだ周囲に田畑の残る、のどかな丘の上のアパートだった。
健次の従兄が塾経営のために一棟丸ごと借りていた、
この丘の上のプレハブ・アパートは、
2階に四畳半の部屋が3つあり、
健次はその北端の一室を借りた。
家賃は1万円。
大学へは1時間ほどかかるが、
周囲にあまり民家がないことと、
塾用に使うアパートのため、健次の他は誰もいないので、
ギターを思い切り弾きながら大声で歌っても、
どこからも苦情が来ない。
本格的にシンガーソングライターを目指す健次にとって、
理想的な環境だった。
健次の部屋から聞こえていたのは、
一年先輩の山都博史のギターと歌声だった。
「健次、こんな感じでどう?」
「いいじゃないですか、先輩。」
「オレもわりと気に入ってるんだよね。」
「ボサノバ風にしたら、もっと良くなるかも。」
「ちょっとやってみてよ、健次。」
それは、健次が書いた詩に、博史が曲を付けた歌だった。
元々オリジナル曲を作って歌っていた二人は、
大学の音楽サークルで気が合い、
すぐにフォークデュオを組むことになった。
この「旅立つ前に」は二人の最初の合作だ。
「これ、健次の実話なんじゃないの?」
冷やかすように言う博史に、健次は激しく首を振った。
「違いますって。僕、彼女いないし。」
「あの可愛いネコのキャラクター、
N市に残してきた彼女とお揃いなんだろ?」
博史は、健次愛用のギターケースを指さして言った。
「ああ、女友だちにもらったんです。ただの友達ですよ。」
それは、佳奈子がいつの間にかギターケースの取っ手に付けた流行りのキャラクターの小物だった。
佳奈子が付けた物だと分かったのは、
中に入っていた一枚のメモ書きを読んだからだ。
『ウソつき健ちゃんへ。からだに気を付けてね。バーカ!
佳奈子』
健次が佳奈子に嘘をついたことはない。
唯一、佳奈子がそう思うとすれば、
誰にも言わずに受験先を変えたことぐらいだ。
(佳奈子にとっては、ウソになるのか・・・)
健次は、一年前の夏、
地元の、とある喫茶店での出来事を思い出した。
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N市内の名門女子高に通う J に呼び出され、
健次が出かけたのは、1975年夏休み直前の喫茶店。
二人だけで会うのは、その日が初めてだった。
J は健次の参加するPOPバンドのキーボード奏者として、
友人が紹介してくれた同学年の小柄で可愛い女の子だった。
バンド仲間では、あくまで物静かなキーボード奏者で、
人見知りするおとなしい女の子と思っていた J が、
実は抜群に歌が上手で、いつの間にか自作曲を歌い、
大手楽器メーカーが主催する世界的な歌謡祭で優秀賞を獲ったと知ったときは、天地がひっくり返るほど驚いた。
「私、将来はアメリカへ行くのが夢なの。」
「アメリカ?」
「うん。やっぱり音楽の本場はアメリカだから。」
「そうか、うん、いいと思う。
曲もいいし、歌もすごく上手いし。」
「宮森君は地球物理学だっけ、
そっちの方の大学へ進学するの?」
「一応、そのつもりなんだけど。受かればね。」
「もう歌やバンドはやめちゃうの?」
「一人で細々と歌うくらいかなあ。
理系の大学だとなかなか時間もないし。」
「もったいないよ。
宮森君の作る歌、私はすごく好きなんだけど。」
「そうかなあ。J の歌聴くと、僕なんか下手糞だし、
足許にも及ばないし・・・」
「宮森君の夢は、地球物理学者になることなの?」
夢と聞かれて、健次はふと我に返った。
小学生時代から化石や鉱物、地質学が好きで、
日曜日には同好の友人と、
毎週のように化石や鉱物採集に出かけた。
だから、なんとなく将来も、
そういう研究ができたら面白そうだとはずっと思ってきた。
しかし、「夢」と言えるほどに憧れたことは一度もない。
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「これは、私から宮森君へのプレゼント。」
そう言って J は一本のカセットテープを、
喫茶店のテーブルの上に置いた。
「宮森君はギターで曲作りするでしょ。
だから、私もギターで1曲作ったの。
A面に入れたこの曲を宮森君にあげる。
聴いてみて。よかったら歌ってみて。」
普段は物静かでおとなしい J が、
その日は自分からどんどん話してきた。
健次は、カセットテープを手に持って見つめながら、
自分の夢って何だろうと思った。
Jは、コーヒーをかき混ぜる手元を見つめながら
つぶやくように話し始めた。
「実はね、音楽祭に出たりとかすると、
毎回職員室に呼ばれて注意を受けるんだ。
在学中の身で、音楽祭に出て歌うなどといった
目立つ、派手な行為は慎みなさいって。」
俯き加減だった顔をあげ、健次を持つめたJの目には、
今まで見たことのない強さがあった。
「でも、私は自分のやりたいことを我慢するのはイヤなの。
早く卒業して、思い切り好きな音楽をやりたい。
だって、今しかできないことだもの。
今やりたいことを我慢して、
この先それができるって保証はどこにもないもの。」
Jは、まるで自分自身に言い聞かせるように健次に訴えた。
「来週から、またコンテストとかで忙しくなるの。
だからバンドはやめる。
ごめんね、メンバーに謝っておいてね。」
ちょっと申し訳なさそうな笑顔でレシートをつかむと、
Jは席を立ちながら宮森に言い残した。
「宮森君も、本当に自分がやりたいことを頑張ってね。
バンドなんかやってると大学落ちちゃうよ。
今日は話を聞いてくれてありがとう!」
喫茶店のドアに付けられたカウベルの
カランコロンという音を残して、
青系の色に統一されたセーラー服のスカートを翻し、
Jは颯爽と真夏のまぶしい街の中へ消えていった。
健次の心に「夢」という言葉が、
カウベルの残響音のようにいつまでも残った。
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その年の秋、健次は高校のクラス担任の教師と最終進路相談に臨んでいた。
「宮森、この組み合わせはちょっと無理やぞ。
国立の方は地元のN大じゃだめなのか?」
担任は物わかりのいい教師だったが、
全国模試の成績表を見て、健次に諭すように言った。
確かに、第一志望の京都大学の合格可能性は、
Dランク(相当努力しないと困難)。
第二志望の東京の私立K大の経済学部は、
最低のEランク(志望校を変えるべし)。
どちらも合格できる可能性はきわめて低い。
教師の心配も、もっともだ。
ちなみに当時はセンター試験や共通一次テストがなく、
すべて本番一発勝負。
「京大にはボクの尊敬する地球物理の教授がいるんです。
K大の経済学部なら、英語と数学、小論文だけなので、
理系クラスの僕には有利だと思うんです。」
「そりゃあそうかも知れんが、でもこの成績じゃなあ。
頼むから、国立だけでも、
合格圏内のBランクのN大に変更できんか。
N大理学部にも、I教授とか、
地球物理のいい先生はいるぞ。」
もちろんそのことも健次は知っていた。
しかし、健次はとにかく家を出たかった。
一人っ子として甘やかされて育てられたことが、
大きなコンプレックスだった。
早く家を出て自活しなければ一人前になれない、
そんな気持ちが強かった。
健次にとっての大学進学は、
いわば合法的な家出の手段だったのだ。
本気で心配してくれる担任の教師には申し訳ないと思ったが、健次は浪人覚悟で志望校を変えなかった。
J が教えてくれた「夢」。
『今やりたいことを我慢して、この先それができるって保証 はどこにもないもの。』
健次にとって今一番やりたいことは、
東京に出て、自分の曲を作り、歌う事だと思った。
でも、昔から尊敬する京大の先生の元での、
地球物理や地質学の研究も、やはり捨てがたい。
ならば、受かった方に人生の「夢」を賭けてみる、
というのはどうだろう。
無謀と言えば、あまりに無謀、
不遜と言えば、あまりに不遜な賭けである。
佳奈子にこんなことを話したら、呆れられ、
不真面目だと怒り出すかもしれない。
だから健次は誰にも話さなかった。
誰もが健次はN大理学部を受けると思っていた。
だいたい、どちらも受かる可能性は限りなく0に近い。
ところが、奇跡が起きた。
理系クラスにいた健次にとって、
私立文系の数学の問題は練習問題より易しかった。
一番苦手な英語は長文の英文和訳だったが、
なんとその題材が、健次が好きで読んでいた唯一の英語の本「トムソーヤの冒険」だったのだ。
そんなわけで、健次は受かるはずのない東京の私立、
K大経済学部に合格し(もちろん京都大学は当然のように落ちたが)、学費以外は自分で工面するという条件で、
合法的な家出に成功したのだ。
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そして今、同じ経済学部の一年先輩、山都博史と一緒に、
アパートの部屋でオリジナルソングの練習をしている。
神様とかは信じたことのない健次だったが、
何か見えざる力でここに来るように仕向けられた、
としか思えなかった。
練習を終え、博史がギターを持って帰った後、
午後6時からの塾講師の準備をしていると、
一階に住む大家である従兄が大声で健次を呼んだ。
「健次、西山さんという女の子から電話だぞ!」
「ハイ!今降ります。」
(佳奈子から?何だろう?)
いぶかしいく思いながら電話に出た健次に、
懐かしい声がちょっと恥ずかし気に響いた。
「やあ。ウソつき健ちゃん。」
「またそれを言う。勘弁してよ、もう。」
「元気?」
「うん、元気だけど。佳奈子は?」
「私はいつも元気だよ。」
「今日はどうしたの?」
「6月の第二土曜日と日曜日、N市に帰れない?」
「6月?・・・うん、大丈夫だと思うけど。
何かあったっけ?」
「N大祭があるんだけど、
その時紹介したい子がいるから。」
「紹介って、佳奈子の短大の子?」
「そう。約束したでしょ。
私は健ちゃんのようなウソつきじゃないから。」
「・・・また言う。」
「もう、とびっきりの美女だからね。
覚悟して帰ってきてね。」
そしてその夏、佳奈子の言った覚悟の意味を、
健次は思い知ることになる。
(つづく…と思う)
この物語はフィクションです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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