【小編】三日月のバラッドBallad of the Crescent Moon
その男は、苦しんでいた。
夜明け前の海岸に現れたその男の手には、魅惑的な形状の楽器が握られていたが、それを演奏するでもなく、ただ立ち尽くしていた。
今夜も眠れなかった。あの日以来、どうしても思い通りの音が出ない。
もしもこんな時、惠子がそばにいてくれたら、秋風の中で寄り添っていてくれたなら、思うがままに指と息が美しいメロディーを奏でるはずなのに。
男は、あの日以来、惠子と別れたこの海岸にやってきては、毎日同じ想いを繰り返していた。
夜明けが近づき、遠浅の渚に寄せ返す波の音が、心持ち静かになった。男は、いつものように踵を返して海岸を去ろうとした時、西の空を覆っていた雲が風に流され、細い光が男の顔を照らした。それは、猫の爪のような金色の三日月だった。
男は思い出した。
惠子と別れたあの日も、こんな三日月の夜明けだった。
「私が私の自由を奪われたくないように、私もあなたの自由を奪いたくないの。あなたの音を奪いたくないの。」
そう自分から別れを切り出しながら、振り向いた惠子の目は、いつも以上に切なげだった。
「お互いに依存しあうだけではダメなの。私は、あなたの光になりたい。ただ、離れたところから、あなたの魂を照らす光になりたいだけ。」
男は、惠子の残した最後の言葉を明確に思い出した。
「光だ。」
そう、惠子は男にとって光そのものだった。惠子が生きるエネルギーが光となって男に音楽を与えていたのだ。
その時、三日月の細い光が男の持つテナーサックスを輝かせた。男は、おもむろにサックスを構え、目を閉じた。
そこには、あの別れ際、三日月を背景に、切なげに振り向いた惠子の姿が、はっきりと像を結んだ。
三日月の光が、右手の指を押した。そして、肺から口許へと、息を押し出した。豊かな音が、しずかに、ゆっくりと、サックスから滑り出した。
目を閉じ方まま、男は三日月の光に導かれ、無意識に音を紡ぎ出していた。
繊細で、甘く、でも、いつか悲劇的な末路を予感させるような憂いを秘めた、美しいバラッドだった。
男が曲を吹き終え、そっと目を開けた時、すでに東の空は白みはじめ、西の空の三日月も、姿を消そうとしていた。
男は気づかなかった。
光という「自分だけの音」を手に入れた自分自身も、実は夜明けの淡い光の中に、今まさに消えようとしていることに。
〈 了 〉
作:birdfilm 増田達彦
絵:Keiさん