昭和少年らっぽやん 第四話 「チョウトンボ」
日本の一部地域では、子どもたちの間で
トンボとり名人のことを「らっぽやん」と呼ぶ。
* * *
終戦から8年経った昭和28年の晩夏。
疎開先の奥三河の山村から焼け跡の名古屋へ戻ったミノルは、以前住んでいた鶴舞の土地の一部を安く分けてもらい、バラックの小屋を建て、家政婦をして働く戦争未亡人の母を支えるため、新聞配達をしながら高校へ通っていた。
暮らしは決して楽ではなかったが、下町の人情に支えられ、高校まで行かせてもらっていることがいかにありがたい事かと、心から思っていた。
昭和25年から始まった朝鮮戦争による朝鮮特需とも言われた好景気は、一部の軍需産業が甘い汁を吸っただけで、その朝鮮戦争もこの7月に停戦し、一般の日本国民は相変わらず貧しいままだった。
アルバイトに明け暮れた夏休みも終わり、土曜日の午後、中央本線の汽車で鶴舞駅へ降り立ったミノルは、ガード下で物乞いをする傷痍軍人たちの前を、
鶴舞公園へと歩いた。
破れた戦闘帽を被り白装束を纏い、片足がなかったり、片手だけでハーモニカを奏でる彼らの姿を、ミノルはまるで無視するように足早に歩き去る。
たとえ傷ついてもいい、目が見えなくなっても、手足が無くなっても、父には生きて帰ってきて欲しかった、と、傷痍軍人を見るたびにミノルは思った。
噴水塔の近くまで来たとき、哀愁あるハーモニカの音色が聞こえてきた。ここにも傷痍軍人がいるのかと思ったが、
その音色は軍歌や唱歌ではなく、流行歌だ。
「♪サンドイッチマン、サンドイッチマン、おいらは町のおどけ者・・・」
おもわず口ずさんだミノルの前に現れたのは、ペンキで薄汚れたナッパ服を着てハーモニカを吹いている若者だった。
「・・・タケシ?・・・タケシじゃないか!」
「へへへ、ミノル、7年ぶりか。元気そうじゃのう!」
ハーモニカを吹いていたのは、ミノルが戦時中疎開していた奥三河の親友、タケシだった。
終戦直前に兄を特攻隊で失い、病気がちだった母親もその後を追うように1年後に亡くしたタケシは、地元の中学を出て名古屋の看板屋に弟子入りし、映画の看板を描いているという。
「あれか、映画館の上にある、俳優や女優の顔が描いてあ
る、あの看板か?」
「そうじゃ!」
「ローマの休日とか?」
「おう。ヘップバーンじゃ。親方もほめてくれたで。
次の『君の名は』は、全部任せたると言ってくれた。」
「すごいがや、タケシ!」
噴水塔の階段で話す二人の前を、進駐軍の米兵たちがにぎやかに歩いていく。彼らの腕にはヘップバーンにあやかった、派手なワンピースを着た若い日本人女性が、ぶら下がるように連れ添っていた。
「大人になるのって、なんか、つまらんのお。」
そういうとタケシは「胡蝶が池」の方へ走り出した。
9月に入って花は終わり、伸びたハスの葉の上を、紺色に輝くチョウトンボが何匹も舞っていた。
それを子どもたちが採ろうとしていたが、ふわふわ飛んでいるようでいて、タモを近づけると、意外に素早く舞い上がってしまう。
「ちょっと兄ちゃんに貸してみ。」
タケシは子どもたちからタモを借りると、しばらくチョウトンボの動きを見つめ、ホバリングした刹那、素早くタモを振り一瞬で捕まえた。
「さすが、らっぽやーん!」
「お兄ちゃんすごい!」
「見てみ、羽根がキラキラしてきれいだろう。」
その藍色の羽根は、光の角度で色を変えて輝いた。
それを見つめる子どもたちの目も輝いていた。
「なあ、タケシ、身体は大人になっても、
心は子どものままでいいんじゃないのかな。」
「・・・うん、そうだな。」
二人が見上げた晩夏の空を、チョウトンボがふわりふわりと気楽そうに、羽根を輝かせて舞っていた。
第5話につづく
作:birdfilm 増田達彦 (2024年改作)
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