元プロの商業デザイナー/イラストレーター→女性刺青師10年目〜何故私は彫師になったのか?
#私の仕事
タトゥー(入れ墨)の施術には医師免許が必要か?
2020年9月16日、最高裁第2小法廷(草野耕一裁判長)は医師法違反事件の上告棄却決定で、タトゥー彫師の仕事は「装飾的、美術的な意義がある社会的な習俗という実態があり、医療目的ではないことは明らかだ」として、医療行為に当たらず医師免許は不要とする初判断を示しました。
私は様々な紆余曲折の末に辿り着いた自分の天職を、5年間の苦しい戦いの末、ようやく自分の手に取り戻す事が出来たのです。もしも裁判で負ければ職業を奪われ、この国を出る以外の選択肢が有りませんでした。
裁判が終わった時に北海道新聞社のU記者が当スタジオに取材にやってきました。私が記者に口を開いた最初の言葉は「もう本当に疲れました。こんなに当たり前のことを証明するために、当時20代だった若い彫師さんが貴重な時間とお金と労力を費やし、5年もかかってしまったなんて...」というものでしたが、その部分は残念ながら記事にはなりませんでした。
しかし、この判決をキッカケにして日本のタトゥーシーンが大きく動く予感がしていました。
ここからアンダーグラウンドからオーバーグラウンドへ、日本のタトゥーシーンはゆっくりと変わる筈なのです。それを想像すると、なんだかゾクゾクしていました。
この仕事をやろうと思ったキッカケ
東日本大震災から1ヶ月程度が経過した時のこと。
当時の私はパッケージデザイナーとして、企業様からデザインのお仕事をいただき生計を立てていました。
しかしそれもやはり震災の影響を受け少なくなってしまっていたのです。
企業から仕事をいただく商業デザイナーの仕事は経験を重ねると報酬が上がってゆきますが、やがてそれも頭打ちになり、仕事の件数も減ってゆくのが常。クライアントは若くて報酬の安いデザイナーに仕事を依頼するようになるからです。
つまり企業から仕事をいただく商業デザイナーは、年収のピークを迎えると、あとは下り坂となる仕組みになっているんです。
私の場合には、この年収のピークと東日本大震災が同時にやってきていたのです。
まだまだテレビでは連日のように地震や津波、原発について報道が続いていました。テレビでは被災地の惨状や人の悩み苦しむ表情ばかりが繰り返し放送され、まさに一寸先は闇であることを知らされる日々。我々が漠然と感じていた安全や安心など、実は幻想だったのだと思い知らされたのです。
そんな毎日が続く中で「これからは人を癒せる仕事をしたい」と考えたのですが、具体的にどうすれば出来るのか、明確なヴィジョンはまだ有りませんでした。
アメリカの人気リアリティーショー LA ink
そんな時に海外のYouTube番組で目についたのが、アメリカのケーブルテレビネットワークで放送されたリアリティーショーのアーカイブ版です。
これが番組名LA ink(エルエーインク)というもので、毎回、一般の視聴者からの応募者が出演し、LAの有名タトゥースタジオにタトゥーを入れにゆくというもの。2000年代アメリカにおけるタトゥーブームを作り上げた立役者的なテレビシリーズと言われています。
たまたま目にしたのが、そのシリーズの中の「Andrea's Marmaid Sleeve」(スリーブというのは、腕全体にタトゥーが袖状に入っている状態をいう)というエピソードだったのです。
スポーツ選手やミュージシャンなどの有名人が出演しワイワイと楽しそうにタトゥーを入れるエピソードも有りますが、その回はたまたま少し悲しいエピソード。女性が若くして乳癌で亡くなってしまったサーフィン友達の女性のメモリアルタトゥーを人魚の姿にして入れるというものだったのです。
この映像を見た時に私は、デザインやイラストを仕事にしていた者として、「ごめんなさい」という気持ちになったのです。
これが何に対しての「ごめんなさい」だったのかと言うと、タトゥー・刺青というデザインやイラストを応用した仕事に大きな偏見を持っていた事への「ごめんなさい」という事でした。
それまでの私はイラストやデザインで生計を立てて一生食ってゆきたいと考えているにもかかわらず、刺青師、彫師、タトゥーアーティストに大きな偏見を持っており、この素晴らしい絵とデザインの仕事に対してノーマークで生きてきてしまっていたのです。
それまでの自分はタトゥーを「人に対してイキがって見せたい人が後先考えずに超えちゃった一線」と捉えていたのですが、この番組で観た一連の流れは、まさにタトゥーセラピーであり、タトゥーアート。
タトゥーという行為を通じ他の手段ではどうすることも出来ない、やりきれない思いを芸術に昇華させ、それを24時間365日身にまとう事が出来ることは、新鮮な驚きに満ちた興味深いカルチャーであると感じられたのです。
そして当時の私の中にはなんとしても、すぐにこの仕事にチャレンジし、世の中に「タトゥーと、それを入れて生きている人たち」の真実を世に知らしめてみたいという意識変容がおこったのです。
タトゥーアーティストになるには?
LA inkを観てすぐに、何故か?自分でも出来そうだと直感的にそう感じ、ネットで探してみると東京でスクールをやっている彫師さんを2人見つけました。
その両方に電話をしてみて、感じの良さそうな彫師さんの方にスクールの申し込み。なんと1ヶ月後には東京に旅立っていました。
それからは川崎に住む母の家に泊まりながら、毎日毎日、東京原宿の彫師さんのスタジオに通って、タトゥーの基本的なスクーリングを受けたのです。
東京でのスクーリング中から「これはなんとなく自分に向いている」という直感が有りましたが、札幌の自宅に戻ってから自彫(自分で自分に彫る練習法)をしたり、夫とタトゥーをお互い彫り合ううちに、それが徐々に確信に変わっていったのです。
それから自宅の屋根裏部屋をDIYして施術室を作り、仕事部屋をお客様とのカウンセリングルームへと変え、僅か4ヶ月後にはタトゥースタジオのオープニングキャンペーン開始。
当初は料金3,000円でハガキサイズまでの激安オープンキャンペーンを仕掛けた所、次から次にお客様のご予約をいただき、オープンしてから1ヶ月程度で、既に1ヶ月先まで予約が埋まってしまったのです。
「タトゥーを入れたい人って、こんなに居るんだ」と驚きを持って対応した事を思い出します。
とにかく毎日毎日が手探りの冒険でしたが、施術が終わるとお客様は皆さん笑顔になり、「有り難うございました」と頭を下げられる、まんざらでも無い日々。
開店初期の作品
この仕事はBtoBのパッケージデザイナーとは違いBtoC。
つまりお客様と直接繋がっている仕事なので、デザインやタトゥーが出来上がった時の喜びをダイレクトにお客様からいただく事が出来るのです。目の前で喜んでいただけるのですから、それは俄然やる気も出ますし、さらに喜んでいただこうと精進もします。
全く新しい仕事がすぐ軌道に乗ったワケ
今思えば、このようにスムーズにタトゥースタジオを立ち上げられたのも、商業デザイナーとしての10数年の経験がベースにあったからです。
タトゥー彫師としては駆け出しでしたが、プロ品質のデザインを作り、プロ品質のイラストを描く事に関しては十分に実務経験を積んでおり、様々な分野に応用がきく段階に入っていたんです。
まずデザイン依頼者と打ち合わせをしてから原案を提出し、それをベースに徐々にデザインを仕上げてゆく。タトゥーのデザイン作業は、それまでの自分の仕事と流れがあまり変わらなかったんですね。
もう一つ、商業デザインはお給料をいただいておこなう仕事ですから、同じものを作るのであれば、できる限り短時間で効率良く、しかも仕事としてのクオリティーは完璧に維持できなければなりません。これをこなせるようになるには、日々、自分なりの試行錯誤を重ね、自分で気がついて改善してゆくことを継続出来る能力が必要です。この試行錯誤のセンスが有る人だけがプロのデザイナーとして10年後に生き残れるのです。
幸いにして私は、それまでの職業経験から、これを無意識に身につけていたのだと思います。
彫師の場合は、デザインが完成すると、次はそのデザインを人肌に手技で針によって彫り上げる必要が有ります。
これについては、お客様による肌質、肌厚、皮下脂肪の多い少ない、痛みへの耐性の有無など個人差がかなり有り、今でも毎日が試行錯誤の日々です。
自分の場合には、何故か?とにかく毎日毎日途切れぬ施術のご予約をいただけた事によって、この面でも奇跡的に非常に短期間で彫師の入り口に立つ事が出来てしまったのかもしれません。
この10年を振り返ってみると
それから10年以上が、あっという間に過ぎて行きました。
今では常時数百名のお客様に施術をお待ち頂く大盛況の店となり、本年からは法人運営となりました。
いままでの流れを簡略化して書き出しますと、
【キャリア上の危機】【天災による危機】
この人生上の2つの大問題を、偶然に見つけた
【海外情報】【自己変容】【直感】
によって切り開く事が出来たという事になります。
別の仕事で地味に培ってきたスキルが全く意図していなかった新分野につながり、それを喜んで下さるお客様が常に300名近くの行列となっている状況は、若い頃の自分には到底想像が付かない事です。
漫画家を夢見ていた10代の頃には漠然と「有名になりたい」と考えていたものの、学校を出て社会人となるうちに、そんな夢はどこかに忘れてしまっておりました。
しかし最終的には、10代の頃からの「絵で一生食べてゆきたい」という夢が、思いもよらぬ形で現実になってしまったのでした。
20年前に、ほぼ無計画のまま横浜から北海道に移住してきて、偶然のセレンディピティーで点と点を繋いできた結果が、この今。
全てのタトゥーには切実な人の想い、夢、願望が詰まっている
私がこの仕事を通して気がついた大切な真実は、「全てのタトゥーには、それぞれが切実な人の想いがこもっている」という事です。
亡くされたペット遺影のご依頼も多い
オープンして2人目のお客様は小学校1年の時にご両親が机の上に3000円を置き残したまま行方不明になり、その後は18歳まで児童保護施設で育ったI君でした。
彼は全身に10箇所以上のタトゥーを入れ、ヒップホップ風のファッションに身を固めておりましたから、事情を何も知らぬ他者から見れば、ただのイキがった怖い人に見えていることでしょう。
しかし、なぜたくさんのタトゥーを入れるのか?という、こちらの質問に対して彼は、「天涯孤独で誰も家族がいないので、タトゥーの一つ一つが自分にとっての家族みたいなもんっすかね」と答えました。
タトゥーの施術をしながら、I君の生い立ちから保護施設内で職員に受けた暴行などの悲しいご経験談などを伺い、その話の合間に見せる孤独感漂う表情を拝見していると、ふと、こんな気持ちが沸き上がってくるのです。
「強がってイキがって何が悪いのか?」
この社会の「枠(わく)」から幼少時に既にこぼれ落ち、強がる事の他に自分を奮い立たせる手段が無い人が、タトゥーを入れることで足りない人生のパズルのピールを埋めるかのように、必死にもがきながら生きている事実を知らされるのです。
誰が彼のライフスタイルの自由を責める事が出来るというのでしょうか?
彼が施術後の作品を見ながら言ってくださった言葉は今でも忘れません
I君が入れた、七転び八起きのダルマ
『自分は今まで色々な彫師を見てきましたけど、これだけの腕があればプロとしてやってゆける筈ですよ。大丈夫。自分は腕がない彫師にはよく、「もっと練習しろ、デビューはまだ早い。」とハッキリ言ってやるんですよ。』
そして10年が経過し、彼の有り難い予言通りに私はプロの彫師として生き残らせて頂いております。
彼以外にも、次から次へと様々な人生模様を抱えたお客様から、その方の人生の深淵を覗き込むような話をお伺いするにつれ、彫師というお仕事は、人の肌に一生消えないものを描く事で、その人生の1ページに参加させて頂いている大変光栄な素晴らしいお仕事なのだと思うようになりました。
フィリピンには80年以上の彫師経験を持つ、103歳の世界最高齢女性タトゥー彫師のおばあちゃんがいます。彼女の元には世界中からタトゥー好きのマニアが常に行列を作っているそうです。
私は彼女を見習って、高齢になってもこの仕事を続け、まだまだ沢山の人々の人生の1ページに参加させていただきたい。
その皆さまとの共同作品たるタトゥーアートを、いつまでも作り続けてゆきたいと考えています。
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