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リカバリ・オブ・ブレイン

K・Iと支えてくれた皆様へ

1.序章

 私が病を得たのは、平成十九年の初秋であった。
 国家Ⅰ種試験に合格し、キャリア組として省庁に入ったのが平成十六年。四年目にして出先機関の課長を拝命した。
 そこで私が遭遇したものと感じたことを書こうとすればそれだけで短編一つの分量となるに相違ない。しかしそれは自己弁護を多々含む、読者にとって退屈なものとなることは想像に難くない。ゆえに割愛する。
 医師により私は鬱状態と診断され、抗鬱剤を投与された。その後、睡眠導入剤と抗不安薬ももらうようになった。一年後、私は他の地方の出先機関に転勤した。転院したクリニックの精神科医は親切な人だった。しかし病状は好転しなかった。私には前年の怨念がフラッシュバックのように現れ、その怨念を一層強化した。それを職場で頻繁に口に出すことは組織人として不適切な行為であり、上司は何度もやめるよう命じた。しかし私はやめなかった。否、やめられなかった。
 さらに一年が過ぎたころ、私の精神状態は緩やかな回復を始めた。私は喜びを感じ、職場はじめ周囲との人間関係も好転した。交際していた女性と結婚したのもそんな時であった。
 しかし好調は長くは続かなかった。再びの激烈な鬱状態に、医師は大学病院への紹介状を書いてくれた。そこでの診断は双極性障害 ——躁鬱病というものだった(医師は「疑い」と但し書きを付けたが)。以降、私は名実ともに躁鬱病患者として病と闘うことになる。
 なにぶん、断続的に鬱状態に陥るのだから役所としてはお荷物である。私は十年近くにわたり出先機関の閑職をたらい回された。馘首にされないのがもっけの幸いというところだった。現在の職場 ——入院前に所属しており退院後に再配置されたところ ——においても、種々の問題 ——私的なものや家庭内の問題を多く含む ——にしばしば見舞われた。
 齢四十にして、私は岐路に直面しつつあった・・・

2.潜入

 様々な問題を解決すべく、上司や妻の家族の助力を仰いでの様々な試行を行ったが、効果はあがらなかった。状況は好転するどころか、悪化の一途を辿った。これは破滅への道であると薄々ながら感じていた。支那事変のようなものである。ここにきて私は入院を選択肢に入れた。
 選択肢に入れてからの行動は素早かった。入院が躁鬱病に与える影響、効果について情報収集を重ね、「入院は躁鬱病に効果がある」との結論に達するとただちに入院のための行動を起こした。入院は治療のための手段であるが、まずその手段を目的として行動したのである。なぜなら、「入院」のためにはさまざまな下準備がいる。私の身分を「休職」とする人事的な手続きと承認が必要だ。その間の家族の身の振り方も道筋をつけねばならない。金も必要だ。入院先病院の近くに住む両親には定期的な面会、差し入れを依頼せねばならぬ。それらの下準備を整えたうえで「入院は不要です」と言われては、全てが台無しとなり後始末が煩瑣になるのだから。
 幸いにして、と言っていいのか、私の入院はほぼ確実となった。師走も押し迫ったころ、私は職場と家のある北海道E町から実家に戻り、そして精神病院の門をくぐったのだった・・・

3.手記

   十一月二十七日

 入院。医師の診察を受ける。恰幅のよい初老の院長で、頭は切れるようだ。この人が担当医となってくれて良かったと後々思う。事前に手渡した資料を見て、「こんなに詳細な自己分析資料を持ってくる患者は初めてだ」と言われる。
 ケースワーカー、新沼さんと面談。入院のための工作のころからお世話になっている。二十代の女性。おっとり型で可愛い。医療保険請求の申請などについて打ち合わせる。
 三一二号室に案内される。六人部屋。鉄格子のついた個室を想像していたが、一般病棟はこうなのだろう。ベッドの空きが三つあり、私が入ったことで残り二つとなる。同室者は、一見普通の佐々木、言語があやしい新藤、反応が鈍い森下。
 昼食。食堂は合宿所を思わせるホール。特に不味くはない料理を食べる。
 佐々木が盛んに話しかけてくる。他の人たちを馬鹿にするようなことばかり言うのでいささか軽蔑した。なおその後、もっと軽蔑することになってゆく、
 ホールで声をかけられる。車椅子に乗った二十歳の昌子、イケメン型の四十歳の工藤。彼らとはつるむことになりそうだと何となく思う。
 初めての夜は九時に就寝。すんなり眠れたが、夜中、いびきが五月蠅いと佐々木にたたき起こされた(と思うが、記憶はあまりない)

   十一月二十八日

 医師の診察を受け、看護師より身の回り品の注意などを受ける。両親に頼む差し入れ品をリストアップする。

   十一月三十日

 初めての入浴日。週二回の午前中、しかも混み合う。だが我儘は言うまい。
 昌子がゲームに誘ってくる。花札はできないかと聞かれ、将棋ならできると言うと、将棋はできないがチェスならできると言われ、チェスをする。また、花札を教わる。これが毎夕の定例となる。

   十二月一日

 電子機器の持ち込みはできないと説明されていたが、実際には許可を受ければ使用できるようだ。スマートフォンは使わない覚悟であったが、実際なにかと必要になるだろうと考え、本体と充電器を親に依頼する。充電式シェーバーも頼む。コンセントも使えないという事前説明だったのだ。建前と本音の乖離を薄々感じる。最たるものは金である。なにやら病院に預けて自由に使えずしかも保管料なるものが天引きされる、と言われていたが、これも実際のところ許可を受ければ自己管理できるとのことなので、そのようにした。
 「自己管理」はここの生活での重要なキーワードとなってゆく

   十二月二日

 月曜日。
 昨夜はよく眠れなかった。
 月曜は週一度のリネン・シーツの交換の日である。起床したらシーツを折り畳んで小包状にして集積所に持ってゆく。九時頃に新しいリネンが配給されるのでセッティングするのである。集積所からの回収は八時頃であるからそれまでに出せばよいものを、住人の多くは六時の起床と同時に慌ただしくシーツを外して畳み始める。中でも佐々木は私が遅いとか畳み方が悪いとか一々指図してくる。まるで牢名主だ。他にも同室者のベッドの周りが汚いとか、私を相手に当てこすりをするのには閉口する。
 母、面会。
 コインランドリーで洗濯をし、乾燥室に干す。

   十二月四日

 診察の日。
 血液検査の結果が出たようだ。リチウム濃度には問題なし。中性脂肪の値が高めということで、治療薬の投与が始まる。前々から気にはなっておりちょうどよい機会だ。
 食堂では、真向かいに座るカバちゃんの言動にいらつき始める。明らかに分裂症だ。妄想的にアメリカや北朝鮮を非難して怒りの言葉を吐いている(ようである)。神経が疲れているとつい不寛容になる。斜向かいには八十近い白崎というのがいる。これも牢名主タイプで、食堂を仕切るかのように配膳口で他の患者を呼びつけたり、食後の机を拭かせたりしている。悪いことではないにしろ、率直に言って鬱陶しい。
 食事時は患者のほぼ全員が一堂に会す。だんだん様子が分かってきた。三分の一くらいは要介護で、おそらく認知症などであろう。気の毒と思う。他にはやはり分裂症が目立つ。ただしここは一般病棟なのでカバちゃんほどの強烈なのはあまりいない。他の患者についてはおいおい書くことになろう。

   十二月六日

 重度の鬱状態が続いている。やっとのことで食事を摂る以外には布団に潜ったままである、つらい。
 作業療法士が来訪。平日の作業療法スケジュールを決めたいらしいが、そのような精神状態に非ず。

   十二月七日

 引き続き重い鬱。風呂の日だが入浴できず。
 職場より封書が届く。休職承諾書を記入して返送する。
 次回の診察で伝えたいことを書き溜める。

   十二月九日

 重い体を引き摺るように作業療法にゆく。屋内野球。見学しているだけでしんどい。療法士には、参加は保留してくれと伝える。

   十二月十日

 重い体を引き摺るように作業療法にゆく。書道。座っているだけでしんどい。途中で我慢ならなくなり早退した。
 洗濯のみ行う。

   十二月十一日

 入浴後、クリスマス会。体育館でボランティアのバンドが演奏していたが、楽しめない。高校時代、障害者施設でボランティアの吹奏楽演奏をしたことを思い出した。
 コンビニのケーキが出た。

   十二月十二日

 診察の日。
ここ一週間ほど鬱状態であること、作業療法は早退していること、フラッシュバックに悩まされていることなどを伝える。医師は、そういう時期もあるので無理をしないこと、特効薬などはないこと、現在の処方は妥当だと思うので変更はしないことなどを答える。
 躁鬱病には、カウンセリングなどの精神療法はあまり効果はないという。診察時間が短くとも、こちらは整理した問いを発し、医師は端的に答えるのが無難といえよう。

   十二月十六日

 このところ、ベッドで漫画を読み、音楽を聴いて過ごしていた。
 今日の午前中は屋内野球。前回よりもましだが、楽しめない。部屋に戻ると新藤が難癖をつけてきた。リネンを配る時間にどこへ行っていたのか、俺が布団にセットしてあげたが今後はちゃんとやれと。私はカチンときた。作業療法に行っていたのだから仕方がないだろうと。意識して若干声を荒げる。新藤は急におとなしくなり、それならこれからはやってあげるという。私は、何も頼むことはない、リネンはベッドに置いておいてくれれば後から自分でやると言い、少々威圧する。前にも触れたが、新藤は言語が怪しく、呂律があまり回っていない(故に上記の発言も私が意訳したものである)。気の毒ではあっても、無理に機嫌を取ったり合わせたりすることもない。私も病気と闘っているのだから。
 午後、初めての外出。コンビニへ行く。ウィスキー・ソーダとセブンスター、それにライターを買う。久しぶりのアルコールだが、酩酊気分はそれほど感じず、気分は良くない。煙草も幸せを運ばず、ニコチンが変に回るだけだ。かくも空しいものか。憂愁を抱いて病院に戻る。

   十二月十七日

 ニコチンの後遺症に苦しむ。もう吸うまいと思う。
 午後、面会者あり。誰かと思い食堂ホールに降りてゆくと、中学の同級生、智香ちゃんと三郎君が来てくれた。ここの病院に入院したということしか伝えていないのに、なんと有難いことだろう。お見舞いを頂戴する。あと、バルーンアートの小さなクリスマスツリーも。
 私は自分の身なりを恥じた。髪は乱れ、無精ひげは伸び放題だからだ。頭もうまく働かず、口をついて出るのはどうでもいいことばかり。しかし、嬉しかった。
 食堂には、昌子とミドリがいてこちらの様子を見ていた。ミドリは前から見知っていたが話したことのない人だ。瓜実型の顔と麿のような眉が印象的な三十六歳の美人。必ずしも私の好みではないが、そのうち会話してみたいと思う。

   十二月二十一日

 このところ、体調がやや好転したので読書をしている。怒りの葡萄は二十年ぶり二度目。四十歳になって味わえる感動もあるものだ。精神にかかわるもの、精神病院を舞台とする作品を読もうと思う。ドグラ・マグラも二度目。これを読破するものは一度は精神に異常をきたすというが、二度はないだろう。
 父に、本の差し入れを頼む。ドストエフスキーの「白痴」はいつか読んでみたいと思っていた作品だ。三島由紀夫いわく、神のごとき白痴もあると。

   十二月二十二日

 大晦日は、外で食事をしようと企てる。お見舞いにもらった五千円が資金である。工藤も一緒に来たいとのことで同行することにする。彼は基本的に正常に見える。若干、受け答えに妙なところはあるがそれは私も同じことのはずだ。少なくとも一年以上の入院を要する患者には見えない。少しずつ話してくれたところでは、どうも外に住居がなく、住居が決まらないと職探しなどもできないらしい。天涯孤独なのだろうか。
 そういえば、三一二号室には新しい入院者があった。宇部という。私や工藤と同じく四十歳の賑やかな人物だ。ここでいう賑やかとは、騒々しく感じる局面があるということでもある。病名はアルコール中毒。したがって酒を飲んでいない状態では精神病者には見えない。入退院を繰り返しているらしく、昌子は面識があって宇部を気に入っている。盛んに私と宇部の仲を取り持とうとする(私と宇部にはあまり会話がない)。私は左のように説明した。彼のことは嫌いではないこと、しかし鬱状態の時には接触を控えたいこと。
 彼は経営コンサルタントらしく、病室には自己啓発本のようなものをたくさん持ち込んでいる。彼の話を聴き、本を借りて読むことは職業人として大いに為になることに違いない。しかし私は入院中は仕事の為になることはしないことに決めているのだ。だからこそ純文学などを読んでいるわけである。

   十二月二十四日

 クリスマス・イヴ。
 E町の自宅の押し入れには、あらかじめ息子と娘へのプレゼントを準備し、渡してくれるよう妻に頼んである。
 喜んでくれただろうか。

   十二月二十六日

 診察。
 比較的良好な状態が続いていたがクリスマスは不調だった。まだまだ安定していないと思い入院継続を希望。そのように決まる。
 三十一日の外出について了解が出る。その日体調が悪ければ別の日に変えてもよいと言われる。一体に、医師は私にだいぶ自由度を与えている。規制しようとするのは看護師 ——特に沼田おばちゃんである。
 この看護師は人の好き嫌いが激しく、嫌いな患者には容赦がない。昌子などは最たるものである(もっとも、昌子は昌子で問題だらけだが)。私も当初は『嫌い』のカテゴリに入れられかけた。体調が悪くて作業療法を休んだり、昌子と仲が良い(ように見える)のが気に入らないらしい。体調が好転してきてからは概ねうまく付き合えるようになったが。
 他の病院はどうか知らないが、少なくともここでは看護師の労力の多くは要介護のお年寄りの世話に費やされている。体育会系の職場と思う。余計な世話をかける患者を疎むのは当然のことと思うがしかし。

   十二月二十八日

 E町の自宅のほうで動きがある。
 妻が、四月人事で仙台に転勤できる可能性が出てきた。これには、私が退院後にE町で職務復帰して順調であれば、遅れて仙台に転勤させて同居という含みがある。退院と復職について頑張らねばと思うが、焦燥はない。一か月の入院生活は、ある程度私を強靭にしたようだ。さしあたり妻の転勤のことを考えると同時に、息子の就学についても考えずばなるまい。
 そういえば先日は 三一二号室でちょっとした事件があった。佐々木が同室者を軽蔑したり、ちょっとした物音にも噛みつくことに宇部がキレたのだ。自らを省みろという内容のことを、ガンガンと罵声を浴びせかけ、佐々木は借りてきた猫のように大人しくなった。これまで宇部は佐々木の大言壮語に追従してあげていたので私もびっくりした。しかし快哉を叫んだものである。
 大体にして、昼間から自分が高いびきをかき、他人が物音を立てると怒鳴り散らすような人間に気を遣う必要があるであろうか。溜飲が下がると同時に、これ以降次第に宇部と交流を持つようになる。

   十二月三十一日

 大晦日。
 かねてより計画の外出である。工藤と一緒に、まず近くのファミリー・レストランに行く。年越しそばを食べるためである。
 豪勢なセットメニューと、中瓶を一本注文する。前回の、コンビニの外で飲んだ缶ハイボールとは比べものにならない。旨い料理と、落ち着いた空間がそうさせるのだろう。ただし二本目を頼もうとは思わない。
 食後、店先で、工藤が煙草を勧めてくる。食事に満足した後というシチュエーションが私の自己規制を失わせた。ニコチンが脳内を巡った。これ以上の誘惑には負けずこの日は一本にとどまったが、この先私は自己規制力を失うのではないかとぼんやり思う。ドラッグストアで日用品を購入し、病院に戻る。
 大晦日、食堂ホールは二十四時まであいている。最近の紅白は実につまらない。aikoの「花火」だけが印象に残る。宇部に誘われ別の小テレビで、昌子やミドリ、工藤、てんかんの佐藤などと一緒にダウンタウンの番組を観る。実につまらない、どこが面白いのだろう? NHK教育の第九を視聴したい。結局、適当な理由をつけて二十二時には就寝する。

   一月一日

 目覚めると年は明けていた。
 昼。正月料理を真似たような料理が出る。不味くはない。旨い料理を求めてもしょうがない。工夫してくれる厨房に感謝すべきなのだろう。テレビは正月らしい番組をやっている。テレビに面白さを求めてはいけないのだろう。読書。

   一月二日

 厨房と言えば以前こんなことがあった。残したものはそのまま下げ膳口に戻していたのだが、沼田おばちゃんに見咎められ怒鳴られた。よく見ると食堂ホールの入り口に汚い大バケツがある。ここに捨てろと言うことらしい。そんなの教えてくれよ、とは私の言い分で、見てわかれというのがおばちゃんの言い分なのだろう。そんなに全てを観察して適応できるくらいなら精神病院なんてこないよ。
 こんなこともあった。鬱病相の酷い頃はとにかく体が鉛のように重く、寝たり醒めたり、食事もままならない。朝には看護師が検温に来るのだが、沼田おばちゃんは、私が外出したり売店に買い物に行くことはできるのに、作業療法や食事をすっぽかす、と嫌みを言う。寝て無視すれば良いのだが、大いに事実誤認が含まれるので、ある日反論した。ただし半覚醒状態だったためあまり覚えていない。宇部は、びっくりしたと後に語った。
 沼田の嫌みの半分は、私が昌子とつるんでいることが気に喰わないせいなのだろう。別に昌子が気に入っているわけでも何でもないのだが。

   一月三日

 そろそろ金が気になり出す。入院の費用はおおむね月に十二万円かかる。そこで事前に六十万円を用意して岩手銀行に口座を開き、特別会計にしておいたのだ。しかし入院前に使ったクレジットカードの請求や各種公共料金の請求は一般会計(ゆうちょ銀行)になされる。面会に来た母に、ゆうちょ銀の記帳、残高照会を依頼する。ごましお、 トランクスもあわせて頼む。

   一月七日

 相変わらず過眠がひどい。食事だけはなんとか時間通りに摂っているが、その他は寝てばかりだ。計算してみると日に十二時間から十五時間は寝ている。明後日は診察日なのでまずこれを訴えなければ。

   一月九日

 受診日。
 過眠を訴える。医師は、朝食前に出されていた薬を昼食前に出すよう変更した。まずは適当な対応と思う。様子を見ることにしよう。退院については、暖かく、気候が穏やかになってから検討した方が良いだろう、と言われる。反対する理由はない。とにかく、数か月にわたって気分が安定するという実感、実績が今の私には必要だ。 休職のための診断書を書いてもらい、職場に送付する。鼻毛が気になってきた。ハサミ式のものは持ち込めないだろうから、電動式のものを依頼せねばならない。

   一月十日

 作業療法。ウォーキング。体育館の中をぐるぐる歩くだけだが。
 気になる女性がいる。長い黒髪に卵形の顔、切れ長の目は私の初めての彼女に心持ち似ている。並んで歩く。分裂症であることはすぐに知れた。自分の前世は西郷隆盛であり現世に転生するよう命ぜられたと言う(誰に?)。
 普段会わないということは閉鎖病棟の住人であろう。歳の頃三十五から四十五くらいか、年齢の分かりづらい顔立ちだ。なんとなく癒やされる。以下、美加と呼ぼう。

   一月十二日

 ゆうちょ銀行の残高と、各種毎月引き落とし分、休業補償の振込額を入念に確認する。少なくとも四月いっぱいまでは入院してもマイナスにならないことが分かる。それ以上に渡る場合は補填せねばならないだろう。

   一月十八日

 父親面会。差し入れ品を受け取った後、状況説明。少なくとも二月一杯は入院であること、主治医は暖かくなってからの退院を考えていること(寒いうちに退院させても良い結果を招かないこと)、その退院は冶療の効果が上がり回復が順調であることが前提であること。
父は精神病院の入院の効果について懐疑的だ。個々の話題につき詳しい説明を求められる。尋問のようでややげっそりする。十二月や一月は鬱や過眠に苦しんだが次第に回復してきていることは繰り返し説明した。二月には安定を確認し、順調であれば三月に何度か実家に外泊して体を慣らしたい旨、伝える。

   一月二十日

 病棟内でインフルエンザが発生した。患者はミドリである。インフルエンザが流行したり内部に発生すると外出・外泊が禁止になると、同室の新藤から聞かされ、戦々恐々としている。
 間の悪いことに、ちょうど昨日、昌子は別の持病のため医大病院に行ってきたのだった。彼女自身はインフルに罹患していないのだが、ウィルスを持ち込んだのは彼女ではないか、と沼田は言う。相変わらず沼田おばちゃんは昌子を目の敵にしている。
 彼女は何の病気か未だに分からない。車いすに乗っている故に全般的な介助を受けているにも関わらず我が儘を言うので看護師に煙たがられている。おかしな人物ではあるが話すことは一応正常だ。分裂症ではない。花札がすらすらできることから知的の線も薄そうだ。ただ相当依存的ではある。相手は工藤だったり私だったりするが、ミドリはそうとう依存されている。午後には食堂でテレビを観ているミドリにべったりくっついて離れない。私は食堂に昌子の姿を認めると部屋に戻ってベッドで本を読む。本当は食堂で体を伸ばして読みたいのだが。
 夕食後はたいていいつもの面子が食堂に集まるが、宇部が昌子を相当構ってやってくれるので助かるし、宇部が昌子を弄っているのは見ている分に楽しい。
 あとは詐話症なのであろうか? 言うことが全然一貫しない。車いすになったのも、私には自殺未遂と言っていたがミドリには糖尿病かなにかと説明しているらしい。沖縄に彼氏がいるとか、高校時代につきあい始めたとか、GPSで位置を追っているとか・・・
 とりあえず手話をやっているのは本当らしく 、NHKの手話の映像を観ながらなにやら手を振っている。TikTokなる 動画サイトにチャンネルをもっているとか、見せてもらったがなにやら踊っていた(正しい手話なのかは私には分からない)。せがまれるままにTikTokをインストールし、友達に登録した。もちろん何かあったら抹消するつもりである。
 それにしてもあれだけ動画をアップしていて通信料はどうなっているのか。工藤もしじゅうスマホでネットゲームをしている。まあ精神病院にあってはネット依存などかわいい方なのか。私は本と音楽があれば良い。
 なお、病棟での写真や動画の撮影、就中ネットヘのアップなどは厳禁されている。

 一月二十一日

 インフルエンザ患者の発生を受け、マスクの着用と手指消毒が励行されている。惜しげも無く配布し、頻繁に交換されている。
 夜、宇部の発案で、部屋に籠もっているミドリに励ましの寄せ書きをしようということになった。彼のテンションはいつも高い。軽躁状態に見えなくもない。さて私は困ってしまった。ミドリとはあまり話したことがないのだ(無口な人である。少なくとも我々の前では)。なおかつ部屋からの外出を規制されているご婦人方にも寄せ書きを届けることになった。
 宇部は、セクハラに見えなくもない文章を量産し、千羽鶴まで折り始めた。だが彼のことは嫌いではない。最近だいぶ打ち解けてきてもいるし、佐々木撃退事変で見直したせいもある。
 私は無難な文章を綴った。佐藤も同様である。工藤は最近あまり同席しない。昌子はなにやら手紙を書いたらしいが、これが後日おもしろいことになる。

   一月二十二日

 ここには重い鬱状態の人はあまりいないように見受けられる。重い鬱状態であれば時間の決まった三度の食事などとても出来るものではない。食堂には毎回ほぼ全員が揃う。無理しているのかも知れないが、見たところ、無理を押して食事に来ているような顔つきの人はあまり見かけない。もっとも、顔つきのみで判断することはできないが。
 以前にも書いたが、やはり多いのは認知症と思しき老人たちである。彼、彼女らは気の毒に思う。車いすをひきずり、やっとのことで食卓に着く。カテーテルを着けているおじいさんもいる。看護師の介助は行き届いていない。正直のところ、介護施設や特養老人ホームでケアを受けた方が良いのでは、と思う。しかし耳に挟むところによれば、お金がない、身寄りがないなどあるそうだ。そして精神科の診断があれば障害年金や生活保護が受けやすくなると。繰り返すが気の毒に思う。ただし人間として軽蔑すべき者もいるのではあるが。
 分裂症にもいろいろいる。しかし共通して、リアクションがなにか違う。かつては隠語的に「分裂くささ」などと言われたらしいが。悪気がある人はほとんどいないのは印象的である。むしろ親切にしてくれる、親切にしようとしてくれる人が多い。場を仕切りたがることがないのが牢名主と違う点であり、その点親しみは湧く。たまにイライラする時もあるが。精神的に、だいぶカバちゃんを受け入れられるようになった。これは宇部の力に依るところが大きい。宇部には場を、人をコーディネイトする能力がある。
 宇部と言えばアルコール中毒である。基本的に正常に見える。私は急性アル中で前後不覚になったことはあるが、入院適応となる人は武勇伝の持ち主が多い。ただしやはり人により、合うあわないがあるのは一般社会とさほど違わない。武勇伝を自慢げに語るタイプはあまり付き合おうとは思わない。
閉鎖病棟とはほとんど関わりがない。水曜と金曜の作業療法で美加と淡い逢瀬を楽しむだけだ。分裂症や躁鬱、アル中などのうち重度のもので妄想や幻覚が激しい患者なのだろう。時々叫び声が聞こえる。
午後、外出。

   一月二十三日

 受診日。
 気分の変動は緩やかになっている。睡眠、覚醒もリズムは整っている。二十一時就寝の七時起床。ここではそれで良いが、退院して仕事や家事育児に就くにはもっと夜更かしが必要だろう。まあ、焦ることはない。
 ところで、この病棟には身体的に重度な障害を持つ人もいる。全身の筋肉に弛緩があるのか、骨格にもクル病などあるのか、言語も不明瞭で日常生活に著しい不便を来しているのに一般病棟で精一杯生きている。彼は創価学会に入っており、毎朝頑張って題目を唱えている。月に一度くらいは学会員が付き添って外出、買い物などしているようだが、もっとしっかりしたケアを受けられる施設やサーピスが絶対必要だ。創価学会は、大作ちゃんに名誉博士号を買い漁る金で彼を救うべきであろう。
 それにしても佐々木の爺は彼を馬鹿にする言動ばかりである。自分がどれだけ偉いと思っているのだろうか。最近では宇部に〆られ私たちからもハプられ、もともと病棟で人望がなかったせいもありほとんど孤独そうだ。と思えば、重度の認知症で応答もままならない老婦人に自己正当の言葉を得々と語っているのだった。

   二月二日

 しばらく日記をつけずにいた。
 今日は外出。日帰りだが、親に迎えに来てもらい実家へ。散髪が主な目的で、近所の床屋へ行く。この床屋は、二十年も前にバイト先の兄ちゃんに勧められ、色気づいて茶髪にした思い出の場所だ。お姉さんは私の少し年上。当時からあまり変わっていないように見えるのは、お互いに歳をとったからだろう。当然、私のことはあまり憶えていなかったようだが、共通の話題もあってくつろぎながら散髪してもらう。お任せにすると前髪が少し長い仕上がりにしてくれる。私もその方が好きだ。目にかかりやすいのと、朝のセットが面倒なのが難だが。
 実家では改築の準備が進んでいる。私も事前に、「要る本などがあったら取っておくから指定してくれ」と言われていたのだが、指示されるままに、ついつい、私物の本格的な整理や処分に追われることとなる。いわゆる断捨離である。私の部屋だったところは完全に片付けるそうだ。不要物をバケツリレーのごとく渡してゆくが、ある箱の中身を聞かれてついAVだと本当のことを言ってしまう。
 戻りは百円ショップに寄ってもらう。ランドリーネットと電池を購入する。十六時までの帰院期限だが十五時と偽り、送り届けてもらう。車を見送ったあと、いそいそとコンビニへ行き、煙草とライターを購入。いつもの橋梁の下で数本薫らせる。三メートルほどの柳の樹が生えていたので、煙草の残りとライターは袋に密封して、根元にデポした。次の外出で使うのだろう。
 病院に帰って部屋に戻ると、荷解きや棚の整理などをしているうちに具合が悪くなってきた。思いがけない重労働とニコチンのせいであろう。夕食後も好転せず、すこし反吐す。反吐すとだいぶ楽になった。発熱三七.五℃。宇部が心配してくれ、看護師に氷嚢を借りてくれた。この調子では仕事復帰は難しいのではないかと、若干悲観的になる。

   二月三日

 妻の転勤はどうやら確定的らしい。それについて父は、三月下旬には引っ越しの手伝いに行くべきだと主張する。相変わらず父は入院の効果に懐疑的だ。そんな寒く慌ただしい時期に、いきなり引っ越しなどという重作業にあたって体調を崩したらどうしてくれるのか。
 暖かくなるころ ——つまり四月以降 ——までは入院した方が良い、というのが主冶医の意見であるから、この際、主治医に明確な判断を求め、それをもって父を説得しようと考える。

   二月五日

 ミドリは既に回復、復帰している。夕食後の定例メンバーで雑談。なお、工藤は昌子の『ウザさ』に閉口して先日彼女を挑発して嘲弄し、それ以来定例メンバーから外れた。昌子も工藤を目の敵にしている。それは賢い選択かも知れないが、私はメンバーの輪に残っている。
 ミドリが受け取った寄せ書きや手紙の話題になった。昌子がミドリに宛てた手紙を初めて読む。これはすさまじい破壊力を持っていた。要約すれば「早く元気になってまた遊ぼうね」という内容なのだが、便箋にびっしりと、同じ文節、文が繰り返しくりかえし羅列されている。書写中枢障害などではないだろうが、まるで呪いの手紙であり、夢に出てきそうだ。私は発作的な爆笑が止まらなかった。「神社でお祓いして貰うべきだ」と言った。昌子は憮然としている。この子はケータイ小説を書いていて読者も多いなどと言っていたが、この文章に読者がつくとは思いがたい。リアル鬼ごっこが好きな人なら楽しめるかも知れないが。
 雑談後、二十時から二十一時近くまでは、佐藤の持ち込んだカードゲームが定例化している。宇部が退院したらどうなるであろうか。

 二月六日

 受診日。
 退院の時期について意見を求めたが、医師としては家庭の事情には容喙できないと。やむを得ない。それならそれで腹を括って退院日程を決めずばなるまい。協議の結果、三月二十日ということで決着した。父は喜んでいたが私は退院後の体調が心配である 。父は私の親だけあって思考回路は似た部分も多い。三月二十一日以降の日程について矢継ぎ早に問いを発してくるので、やんわりと宥める。不確定要素はまだあまりにも多いのだ。
 妻に連絡する。息子や娘の学校、保育園などの話題から、私はふと、この精神病院は全寮制の養護学校に似通っていることに気づく。これまで、私がここでどんな生活をしているのか伝えるうまい言い回しが見つからずもどかしかったのだ。

   二月七日

 失恋。
 今日は作業療法の日であった。体育館でバレーボール。インターバルにはいつもの通り美加と話していた。今日は宇部が参加している。それに気づいた美加は目を奪われたようだ。盛んに、カッコいいと言う。私が同じ部屋だと伝えると、「あなたとはもう付き合えない。もう話しかけないで」と、突然フラれてしまう。四十にもなって、告白もしていない女性にフラれる破目になるとは思わなかった。美加は宇部に盛んに話しかけていた。
 面会日。父来る。
 差し入れに頼んでいたのは鞄と缶コーラ六本など。またしても今後の日程や計画について矢継ぎ早の質問を受ける。引っ越し日程等は妻と調整中であること、ギリギリにならないと分からないかも知れないこと、学校などはまず空きがあるか確認を取れないことには動きようがないこと、などを噛んで含めるように説明する。まだ一か月以上、療養期間は残っているのだ。親が焦ってどうするのか。気忙しいこと夥しい。
 とはいえ、退院に向けてのアクションは起こす必要がある。二月下旬に一回、三月上旬に一回の外泊を打ち合わせる。二回目には、口座の整理や保証人である弟への挨拶、E町行きのチケット手配などをしようと思う。
 病棟では酒と煙草は嗜めないため、コーヒーとコーラは人気がある。わけてもコーラは人気が高く、私も愛飲している。それだけに盗難も多く、冷蔵庫に入れておくことには危険が伴う。これについては色々と考慮した結果、今は茶封筒にマジックで名前を書き、缶を入れてガムテープで封して冷蔵庫に入れている。今のところ被害はない。
 夜にはいつものメンバーでダベっていると、宇部が、美加にプロポーズされたと言い出した。子供を作ろうとまで言われたらしい。その一分前に私がフラれたことを肴にして皆で笑う。

   二月九日

 宇部、退院す。
 長いような短いようなつきあいであったが、彼のことは忘れないであろう。三一二号室の綱紀を粛正してくれたのも彼であり、夜の食堂での集いをコーディネイトし、楽しいものにしてくれたのも彼であった。彼がいなければ、ミドリと話す機会も無かったかもしれない。さらば、また会う日まで(それは間もなくのことであったが)。
 今後の食堂での人間模様はどう変わるであろう。間違いないのは、昌子がミドリや私に依存する度合いが高まることだ。前述のように工藤は早々に昌子とは縁を切り輪を去った。佐藤は穏やかに相手をしてやっている。私はどうしよう。
 ドストエフスキーについて。彼の小説はまず人名が長い。とても長い。しかも略称や愛称がいくつもあり、同じ人物が様々な名で呼ばれるので非常に混乱する。次に人物の外見の描写がくどいほど詳細である。髪の色や型、瞳の色や目つき、年齢、ひげ、体型、服装・・・次に、登場人物のトークに、本筋とあまり関係のなさそうな嵩増しが多い。カットしてもストーリーには差し支えがないと思う。最後に、登場人物が突然予告なくキリスト教や哲学や社会主義などについて熱く長い演説を始める。それを読んでいるうちにふと、「本筋はなんだっけ?」と思う。
 なお、右記はUncyclopediaを大いに参考にしている。スマホで暇つぶしするには、パケットの小さく済むアンサイクロペディアなどはちょうど良い。

二月十日

 妻に電話する。
相変わらず父は今後の日程について気を揉んでいるので、あまりせっつかず落ち着くように伝えた、と話す。もし妻と父が直接話したら、妻はさぞ気疲れするであろうと思う。
 宇部が去り、いよいよ私が佐々木と対決すべき日がやってきた。同室の森下(分裂症である)が、タオルをパサパサしていると、佐々木が「うるせえ!」と怒鳴った。反射的に「貴様の方がうるせえ!」と怒鳴りつけた。「ナニ!?」と肩を怒らせる。私は「何だ、やる気か!?」と怒鳴ると立ち上がりファイティングポーズをとった。ここで佐々木が折れ、口ごもりながら引き下がった。
 いずれはこういう日が来るだろうとは思っていた。宇部が去って以来、次第に調子に乗ってきているのが分かっていたからだ。こういう相手を扱うには怯えを与えねばならない。一回目の怒鳴りつけに口応えしたのは、私が宇部ほど怖くないように思われたからであろう。拳を構えるまではしたくなかったが、今後、佐々木をおとなしくさせておくことは快適な入院生活のために必須である。

   二月十四日

 宇部が迎えに来て、 ミドリと三人で外出。元気そうだ。まずは冷麺を食べに行く。私の好物なので希望したのだ。小上がりの席に着くと、自然、肉も焼こうということになった。
 私はノンアルコール・ビールを頼む。冷えていて美味い。焼き肉にはやはりビールだ。そして、アルコールがなくとも満足できる。ノンアルも進歩したものだ。今後の節酒については楽観的になる。煙草は無理そうだ。今日も宇部が二本呉れた。
 食後は、ショッピングモールヘ行く。ミドリはゲーム機を探しているようだ。私は二人と別れ、ウィンドウショッピングする。アウトドア用品の店でバーナーやランプなど眺めるが、なんだか遠い世界のことのようだ。本屋に行くが、特に読みたいものも見つからず、宇部、ミドリと合流し、病院に戻る。

   二月十五日

 牢名主の白崎と衝突した。
 食堂で斜向かいに座っている白崎が、口から食事を撒き散らしたのだ。嘔吐ではなく咽せたもののようであり、お年寄りのことだし仕方ないなとは思っていた。しかしテーブルの上には目もくれず、平然と食事を続けている。しかもいつものように偉ぶって他の患者に指示を与えている。
 これは私の許容を越えていたので、後ほど(周囲に人がいないのを見計らって)、人に迷惑をかけたときは謝るように指導した。残念なから白崎はついさっきのことを憶えていなかった。 「何だその態度は!」とこちらが怒鳴りつけられた。これ以上は時間の無駄と思い、鼻で笑って去った。お年寄りに記億力を求めるのは酷かも知れない。しかし白崎は常日頃から「俺は盛岡一高出身だ」というのを口癖にしている。そんなことはよく憶えているものだ。一高は良い学校かも知れないが、八十近くなって自慢の種にしなくてもいいでしょう。

   二月十六日

 相変わらず昼間は食堂で読書をし、疲れたり昌子を避けたい時はベッドで音楽を聴いている。
 白痴は二巡目に入った。引き込まれる本だ。一巡目は正直、文章を読み解くのに苦痛を感じた。言うなれば山に登山道をつける作業であろう。木を伐り、岩にハーケンを打ち、梯子や鎖場を組む。景色を楽しむ余裕などないのだ。二巡目はドラマが目から飛び込んでくる。登山道を登りながら眺望を楽しめるのだ。次は何を読もうか。作業療法の部屋には罪と罰、カラマーゾフの兄弟がある。カラマーゾフは難易度が高いと聞くので、罪と罰でも読もうかと思う。
 入院から一、二か月ほどは、ボリュームのある本は読めなかった。漫画や軽めのエンターテイメントを読むのが精一杯だった。赤川次郎は良い小説を書く人だ。
 夜は食堂で、いつものように、惰性でテレビを観ている。日曜は特にチャンネル争いが激しい。大河ドラマの時間帯、佐野という老人は別の番組を観るものだと決めている。我がグループは早くからリモコンを確保したり、二十時にNHK総合に切り替わるようにタイマーセットをかけたりするのだが、時問になると佐野はすぐにチャンネルを変えたがり、リモコンを巡って諍いとなるのだ。どうもこの人物、自分の思い通りにならないと駄々を捏ねるので困る。
 一方で、こちらのグループでは昌子が佐野にチャンネルを譲りたくないと感情的になる。自分では解決できないので私にチャンネル争いを依頼する。正直私はどうでも良い。大河は再放送を観れば良いのだから。
 入院中、お年寄りと衝突した話をだいぶ書いたように思う。いたわって、こちらが折れてやるべきかも知れないが、自分を犠牲にして我が儘に付き合ってやる道理も義理もない。自分が快適に生活を送ることを優先すべきだ。もっとも、こちらに理のある場合の話だが。

   二月十七日

 以前に受けた、心理検査の結果が出た。私はやはりストレスにより鬱状態になりやすいタイプらしい。その一方で、常識にとらわれない面もあるそうだ。褒め言葉ともとれるが、冷静に考えれば非常識と言うことでもある。思い当たる節が多すぎて苦笑する。
 スケジュールに余裕を持つことと、ちょっとした不調でも相談することなどをアドバイスされる。

   二月二十日

 診察日。
 全体として快方に向かっているということで、医師は、三月二十日 に退院する予定として書類を作成するという。
 医療保険やE町行きの時刻表などを整理する。また妻に電話し、仙台転勤を前提に引っ越し手続きなどを打ち合わせる。
 昌子がついにしでかした。部屋で拘束されたそうだ。何事かと思っていると、看護師に逆らって暴れたらしい。順次情報が入ってくる。動画サイトに動画をUpしているのがバレたこと、しかもその中で「この病院で看護師にいじめられている」というような発言をしていたこと。スマホでこの病院のロコミを見ると、TikTokにそのような動画があったと第三者によってオープンにされてい。急いでTikTokのアカウントを抹消し、昌子からの接触を遮断した。宇部に情報を流し、大笑いする。

   二月二十一日

昌子は荷物をまとめているらしい。閉鎖病棟か、強制退院だろうか。宇部経由で情報が入る。沿岸部の系列病院に転院させられるらしい。もうスマホも取り上けられ、我々に連絡を取ることはできないだろう。ご愁傷様である。同情する気にはならないが、おいしい笑いのネタを提供してくれたことには感謝する。宇部は「他の人にはバラさないで」と言われたらしいが、バレないと思っているのだろうか。早速ミドリと佐藤に情報提供し、笑う。
今度は佐々木がしでかした。今日は売店での買い物の日であったが、規定以上の飴を持ち帰った容疑。佐々木は詰所に連行され取り調べを受けている。病室には看護師が家宅捜索に入った。冤罪かも知れないが、どうしてこうも面白い事件ばかり起こるのか。そう宇部に連絡すると、「俺も見たかった」とぼやいていた。

   二月二十二日

実家へ外泊。外気も室内も寒く感じる。病棟は快適な温度に保たれていることを実感する。
家の改築に伴う「断捨離」。今回は心の準備をしていたのであまり苦にはならず、楽しむことも出来た。父はたいぶ楽しんでいるようだ。新しい家への期待と、片付け整理処分自体が日曜大工のような面白さがあるのだろう。気持ちは何となく、分かる気がする。
美味い食事を摂り、一人でゆったりと入浴し、ふかふかの布団で眠る。中国、武漢に端を発した新型コロナウィルスの拡散が不気味である。

   二月二十三日

 美味い朝食をとり、片付け整理処分。昼食後、病院まで送ってもらう。途中、洋服の青山に寄ってもらう。私は会員であるので毎年サービス券が送られてくるのであり、使う機会のないままE町に放置していたものを取り寄せておいたのだ。店内はマスクをしている人が目立つ(私も着用している)。大ぶりのスウェット、ウールの肌着を購入。病院内で着るのにちょうど良い。
 病院に戻り、不味くはない食事を摂り、あとはいつも通りだ。
 三月一日に単独外出の計画を立てる。そう遠くない場所にスーバー銭湯があるのを確認していたので昼食がてら大浴場に浸かりたいものだと外出届を出す。
 相変わらすコロナの動向は不気味だ。

   二月二十六日

 リーダー的な男性看護師が患者一同を集める。コロナウィルスの拡散に伴い、明日より最低二週間、外出は禁止する。面会も対面は出来ず、差し入れは看護師を通じて行うと。
 ある程度の予期はあった。問題は、退院に向けた慣らし外泊と、それに伴う雑事の処理が出来なくなることだ。退院後、E町に発つまでの期間に片付けなければならないだろう。
 看護師の人間関係もだいぶ分かってきた。師長は良い人だが、リーダーシップを発揮するのは必ずしも得意ではないようだ。詰所では若干浮いており、率先して雑事に従事している。私も似た面があるから人ごとと思えない。しばらく姿を見せなかったのは体調を崩していたからと仄聞しており、メンタル関係かと心配している。
 沼田おばちゃんのことは既に述べた。他に小言が多く、いつも機嫌が悪い容貌の良くない女性看護師が一人。見分けがあまりつかず名前を憶えられない人が二、三人。鈴木さんは私の好みのタイプであるがほとんど関わりが無い。宇部と同姓の二十代前半と思しき女性がいる(以下、宇部(看)と呼ぶ)。可愛らしいが私のタイプではない。宇部はよく弄っていたものだ。男性看護師について、あまり名前を憶えられず、記述も少ないのは私が男性だからである。

   二月二十七日

 四十一の誕生日。少々の感慨はある。Facebookの友人からお祝いのメッセージを貰ったのは嬉しかった。本厄の歳であり、退院したら神社にお祓いに行こうかな、と思う。
 マスク、除菌シート、消毒薬が払底しつつある。インフルエンザ発生の際に惜しげなく使ったためもあるようだが、それはやむを得ないことであろう。

   三月三日

 ニュースでコロナウィルスの拡散を見て心配したり、読書したりしている。
 北杜夫の本を二冊、筒井康隆の本を一冊、Amazonにて注文した。「夜と霧の隅で」は、ナチスドイツの精神障害者虐殺指令に抵抗した精神科医たちの話らしい。読みたいと思いつつ読まずに来たが、精神病院の中で読む時間をとれたことに自嘲を漏らす。

   三月五日

 退院まで二週間となり、作業療法室の蔵書から罪と罰を借りてくる。白痴より読みやすい。しかし、神経をすり減らす作品である。

   三月六日

 注文していた、北杜夫と筒井康隆の本が届く。看護師詰所で説教を受ける。直接の購入は禁止であり、通信販売等は職員を通じて行うよう注意される。知らなかったということで今回は大目に見るとのことで、これは私の勤務態度、もとい患者ぶりが良いせいであろう。部屋の奥にいた沼田は知らない顔をしている。第一発見者が彼女であったらひと騒動あったかも知れない。
 夜と霧の隅で。障害児たちが移送されていく場面から始まり涙が出そうになる。優生保護法にまつわる医師たちの会話や議論、そしてそれぞれのスタンスで、ナチスの指令に抵抗していく姿。
 あらすじのイメージから、「職や命を賭してナチスに抵抗した」物語かと思っていたが、彼らのやり方は、想像よりだいぶ泥臭い。わけてもケルセンブロックは、医学的倫理観に照らして如何なものか、という手法さえ用いる。しかし他にどんな道があったか、神ならぬ人間に何が出来たかを考える必要があろう。

   三月九日

 LINEで智香、三郎に連絡を取る。前々から、退院したら快気祝いを設けてくれると言っていた。ありがたいことだ。コロナのせいで少人数にならざるを得ないが。三郎は連絡がつかないようだ。メッセージが既読にならない。智香と電話で話す。どうも三郎は事案に巻き込まれたらしい。基本的に良い奴なので心配である。快気祝いは三郎抜きにならざるを得ないだろう。

   三月十一日

 共済組合医療保険請求のための診断書について職場担当と相談。必ずしも「診断書」でなくとも、医療費の領収書で差し支えないそうだ。診断書はそれなりに金がかかるので助かる。その旨、新沼さんと書類の確認。相変わらず可愛らしい。天然ぽいところが好みに合致する。もうすぐお別れと思うと少し寂しい。

   三月十二日

 受診日。
 特別なことはなく、二十日の退院について確認。E町の病院への紹介状の依頼。つなぎの薬の依頼。
 今後、少々なら酒を嗜んで大丈夫か意見を聞く。「私の立場で大丈夫とは言えないよ」当たり前か。
 職場に、退院日程とE町到着日程を知らせた。
 親に、コーラとシャンプーの差し入れを依頼する。これが最後の差し入れだろう。シャンプーは前回入浴日に盗難に遭った。残りの入浴日は少ないので、少量の使い切りタイプで良いのだ。
 それにつけてもコロナの流行は大きな不安材料だ。退院後の実家滞在、E町への移動に支障は出ないだろうか。

   三月十四日

 両親、妻に電話し、妻の引っ越し日程や協力体制につき打ち合わせる。
罪と罰は二巡目に入っている。非常にドラマティックだ。十九日 ——退院前日 ——までに読み終えて返却せねばならない。以前から、読書は体を伸ばせる食堂で十二時半から十六時までというのが日課であった。だいたいの患者はその時間昼寝をしているのでホールはほぼ無人だ。ただし人がいてテレビを観ていることがあり、そんな時は気が散って仕方なかった。もちろんテレビが優先されるべきなので我慢していた。しかしここに来て、入院時に購入して持ち込んだ耳栓の存在を思い出した。装着してみると効果は上々だ。なせもっと早く思い出さなかったのか。

三月十五日

 洗濯について。退院を五日後に控え、この問、どの服を着るか、いつ洗濯するか検討する。退院前日までには乾燥して取り込むようにせねばならない。
 退院に向けた荷物の整理も順調に進んでいる。後片付けも、入院生活の中では楽しい行為の一つであった。

   三月十六日

 最後の室内野球。
 寂しいことがある。
 最後の体育館ウォーキングの日、美加と一緒に歩きながら、さよならを言うつもりだった。一度フラれたが、翌週にはそのようなことは忘れており、一緒に過ごす時間をいつも楽しみにしていた。しかし、職員の都合により今日、閉鎖病棟の患者は出てこなかった。
 長く、時には気の遠くなりそうな入院生活、週に二度、美加と逢って他愛ない会話の出来ることは心に張りをもたらしてくれた。彼女のために、感謝と、快方に向かうよう祈りを捧げよう。

   三月十九日

 診察日。
 特別なことはない。明日の退院を確認しただけである。主治医には「睡眠・覚醒リズム表」を示し、順調に回復して良い状態が続いていることを伝え、そして感謝を述べた。医師も喜んでくれたことは嬉しい限りである。部屋で荷造りをしていると、新沼さんが最後の面談に来てくれた。彼女も元気で過ごしてほしい。感謝を捧げよう。
 夜は、いつもの面子での、私にとっては最後のカードゲーム大会。ミドリと佐藤にも感謝している。今後会う機会はまずないだろうが、あるとすれば宇部が招集して同窓会をするときであろうか。

   三月二十日

 退院日。たまたま、朝の検温は宇部(看)であった。気心が知れてきた頃が別れの時というのは私にはよくあることだ。
 いろいろなことがあったが、ここで約四ヶ月を過ごしたという実感には乏しい。入院したのがつい昨日のことのように思える。工藤と佐藤に別れを告げ、職員に挨拶した後、病院を後にする。振り向いた私の眼には、心持ちくすんだ白色の病棟が見えた・・・
(了)

あとがき(1)

 日記調小説、という形式にしようと試みたのですが、どちらかというとレポートに近いものに仕上がってしまいましたですね(笑)。
 執筆自体は令和二年初夏に仕上がっていたものです。この時点から、私の診断は大きく変わっておりますが、当時の心境を尊重し、今回若干の推敲を加えるにとどめました。
 本文中、不適切と思われる語句を多用しておりますが、その点は以下で弁明しております。

あとがき(2)※令和二年七月初版に付したもの

 この作品は、日記、あるいは私小説の体裁を採った、純然たるフィクションである。作品中に登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは一切関係はない。
 しかしながら、私の経歴を知るものにとっては、これが私のある経験に取材したものであることは一目瞭然であろう。
 手記、日記の体裁を採った小説は世に多い。その中でもこの作品の構成に影響を及ぼしたものとして、まず阿川弘之の「雲の墓標」を挙げずばなるまい。またその師である志賀直哉も私小説を得意とする作家であり、入院中読んだ「暗夜行路」も私にヒントを与えたであろう。
 入院中の読書体験は、私をして筆を執らしむる動機を与えるに十分であった。枚挙にいとまが無いが、怒りの葡萄、 ドグラ・マグラは強く印象に残っている。いずれも二十代のころ読破した経験があるが、二度目の出会いは、前回とは比べものにならない深い印象を与えてくれた。作品中にもあるとおり、四十になって新しく得られる感動もあるのだと思う。
 今回、新たに手に取った本も多い。北杜夫 ——精神科医にして躁鬱病患者 ——の「夜と霧の隅で」は、精神障害を持つ息子を享け、さらに自身精神疾患を持つ筆者としてはいずれ出会うべきだった作品であり、今回の出会いは私の世界を一つ広げてくれたようである。
 入院中の読書体験を語る上では、ドストエフスキーとの出会いを特筆しなくてはならない。「白痴」は三島由紀夫が言及していたことで以前から興味を持っていた作品であり、それを熟読できたことは私の内面に新たな世界を形作った。拙作の文体 ——特に改行の少なさは明らかに彼の影響を受けたものである。そして、退院後に読んだ「貧しき人々」は拙作の構成を決定づけた。
 私はこの作品において、あえて差別的用語、不適切と思われる表現を多用した。特に「分裂症」の語は意識的に用いた。これは単純に私にとって馴染みの深い語であることが主な理由である。躁鬱病も、現在では「躁うつ病」さらに「双極性障害」の語が用いられることが多い。しかし私にとって、漢字二文字で表される病名は病態を明確に表してくれるものと感じられるのである。
 副次的な理由は、いわゆる「言葉狩り」への抵抗である。筒井康隆が断筆宣言を行ったことももはや二十有余年前のこととなるが、以来「差別的」とされた用語は、少なくとも公文書や報道からはどんどん姿を消している。例えば「気違い」という言葉は今や見かけることはない。そのような語は、インターネットの世界に住み場所を移し、多くの人の知らないところでふつふつと沸き返っているのである(ネット社会でさえ、「基地外」のように隠語的に扱われている)。
 このような表現が、少なくともかつて日本に存在したことは動かしがたい事実であり、それを用いることでこの作品の臨場感が高まると判断した場合に私は用いた。誓って差別的意図はないが、これ以上の弁明はただの言い訳となりそうなのでここで止めるべきであろう。


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