奥会津の旅'24初夏
一年振りの只見線。会津若松7:41発の3両編成の列車は高校生で満員。午前中は6時台の始発と合わせて2便しかないが、平日のこの時間は、通学列車になるようだ。
会津坂下で学生達は全て降りて行き、いつもの観光客だけの車内にもどった。
蛇行して流れる只見川に架かる橋は、終点小出までいくつかあって、撮り鉄や乗り鉄たちを呼び寄せるが、目的地の会津西方駅までは鉄橋はひとつ。
橋にかかると列車は速度を落とし、乗客が景観を眺め、写真を撮る時間を与えてくれる。
荷物が届くまで時間があったので、久々に西方地区に行ってみる。西方の閉校した小中学校が、かつてお宿になっており、会場にも近く、地区の女性達心尽しの食事が美味しく、毎年お世話になっていた。
コロナ禍でイベントが3年中止になっていた間に、館長さんが亡くなられ、スタッフも高齢となり閉館してしまった。
奥会津地方独特の家々の佇まいに、倹しく美しい暮らし振りが感じられる、大好きな集落だった。
朝食前には、いつも通りを抜けて、西隆寺まで散策するのが楽しみだった。西隆寺境内には、1970年代当時の住職が、後継祈願で当時20代の仏師姉妹に依頼したという、大小33体の石彫り観音像が佇んでいる。
かつては家々の軒先に丹精された花が美しかった通りに、住む人の居ない家が増えている。
三島町を初めて訪れた25年前、2500人だった人口は今、半数近くに減っている。福島県で1番、人口減少速度が早いと聞く。
花は無くても、家周りがきちんと整えられ、荒んだ印象がないのは、住民同士の支え合いと、始末の良い暮らしの美意識があってのことだろう。
旅の土産は…
"ふびじん"さんは、京都言葉が柔らかな、とてもチャーミングな方。旅に出るとすぐに、家に帰って仕事をしたくなるという、小柄ながらエネルギッシュな工人さんだ。あちこちのイベントでご一緒した、四半世紀前からの大ファンである。
行く時は今年が最後になるかも知れない、といつも思う。そうしてまた、来年もまた来よう、と心に決めて帰路に着く。
各地のお国言葉が飛び交う楢林。
ものづくりの弾みになってきたこの場所は、今では日々の暮らしの弾みにもなっている。