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うつ病の人への関わり方についてうつの私が思うこと

うつ病をかかえる人にどんな声かけ関わりができるか。患者の家族や知人は大いに戸惑いを覚えるだろう。うつ病患者である私自身、どういう関わりが適切なのか、こういうふうに接してほしいと言葉にすることはできなかった。しかし体調が落ち着いてきた今、一番つらかった頃を振り返って考えたことをここに紹介したい。

「励ましは禁物」これは基本。なぜなら……

うつ病の治療には正解はない。副作用の少ない新しい抗うつ薬はあるものの、万人に効くわけではない。頑張って治療を受けても治るとは限らないのだ。
それなのに「頑張れ」と励ましても全く意味ないと思う。
頑張っているつもりだったのに、それでもうまくいかず一番困っているのは本人なのに。それを「頑張れ」という言葉で片付けるのは冷たい声かけだと私は感じる。

例えばがん患者への関わりも同様だ。良い抗がん薬は続々と開発されているけれど、全員に効くわけではない。副作用に耐えて治療を受けたり生活習慣を見直したりしても運悪く治療が奏功しない場合もある。

いろんな治療を身を削って試して戦ってきた人に「頑張れ」というのは酷な話だ。
特に病的な負の思考や自己否定、希死念慮に苛まれているうつ病患者に対して「頑張れ」と言うのは、たとえ発言者に悪気はないとしても「(頑張りが足りないから)もっと頑張れ」と言うことと同じだ。

医療の進歩した現代でも残念ながら「治らない病い」は確かに存在している。治るはずの病いでも運悪く長引くこともある。それに対して「頑張れ」という言葉はいかがなものか。
「よく頑張っているね」と褒め称えて「少しでも楽に生きるために(いつか迎えねばならない「死」が訪れるまでのあいだ)どうすればいいかな、一緒に考えようよ。一人じゃない。そばにいるよ」。そういう関わり・考え方が大切ではなかろうか。

「うつ病患者に励ましは禁物」とはうつ病に関する本には必ず書いてあることだ。でもなぜ禁物なのかを理解しないと「頑張れ」と似たようなニュアンスの表現を使ってしまう恐れがある。頑張れを言葉狩りしても意味はない。「なぜ励ましてはいけないのか」に思いを馳せることが重要だ。

生への圧力ではなく「死に近づかない」関わりを

では一体どのような関わり方が適切なのだろう。
「頑張れ」と生の方向、ポジティブな世界へと圧力をかけられると、患者は余計に死を意識してしまう。そういう関わり方よりは、なるべく「死」に近づかないような関わり方を意識するのが良いと私は考える。

「死」に近づかないような関わり。
それはとても難しいことだが、キーワードは受容ーー患者のありのままの姿を受け入れることーーである。

ありのままの姿を受容するために、まずは患者の言葉(途切れ途切れでまとまっていないかもしれないけれど)を聴く(聞くhearではなく、訊くaskでもなく、聴くlisten)こと、すなわち傾聴が重要である。
受容と傾聴の重要性は医療・ケアの世界では当たり前になりつつあるものの、一般社会には根性論が根強く残っているのは残念なことだ。

うつ病患者が抱える「わかってもらえない」という苦しみ

うつ病のように数値で測れない・目には見えない苦しみを抱えている病気の場合は特に根性論が持ち込まれることが多々ある。そして患者はうつ病そのものの苦しみだけでなくわかってもらえない苦しみまでをも味わうことになる。

身体的な疾患の場合は目に見えて苦しみがわかることが多い。例えば骨折の場合を考えてみよう。
「痛そうだね、大変だったね、しばらく休んでね、お大事に」
そういう関わり方に自然となるだろう(昔の運動部では骨折すら根性論で片付けられていたけれど……)。

翻ってうつ病の場合、寝込んでいても「甘えだ」「怠けだ」などと冷たい関わりをされがちだ。怠けたくないと一番思っているのは本人なのに。情けないと一番苦しんでいるのは本人なのに。

心というのは人間の健康の根幹である。心の病いは身体のあらゆる部分に不調を来たし得るし、最悪の場合は死にいたってしまう。いわば全身がバッキバキに骨折しているようなもの。これ以上頑張るともっとヤバいことになる。

さらに悪いことには骨折は普通時間が経てばたいてい治るけれど、うつ病の場合は時間が経てば治る人もいるけれど治らない人もいるし完全に治るということは少ないという特徴がある。
骨折なら「全治◯か月です。◯か月後には元通りの生活ができますよ」と言われるだろう。患者はそれを希望の光とし「今は我慢の時だ、まあ◯か月なら休むのもいいか」と思えるだろう。
ところがうつ病の場合には(休職◯か月と言われることはあるが)◯か月後に治るという保証はない。

終わりがある恐怖はスリルでも、孤独な永遠の恐怖は絶望である

お化け屋敷には必ず出口がある。ジェットコースターにも必ず終わりがある。
人間はそういう「終わりのある恐怖」をスリリングだと感じ楽しむことができる(私はビビリなのでお化け屋敷もジェットコースターも苦手ではあるが)。
恐怖から脱出して元の世界に戻り、一緒に入った友人と「あぁ、怖かったね! けれど楽しかった!」と体験をわかちあうのは楽しいことだと耳にする(私はビビリなのでそもそも遊園地には行かないが)。

そういう恐怖をスリルとして楽しめるポイントはわかちあえる人がいること、終わりがあるとみえていることの2つだと思う。
その点で、うつ病のようにわかってもらえない苦しみ、出口のない苦しみを「スリリングだ」と楽しめる人は余程の変態でない限り無理な話だ。

想像してみてほしい。
あなたは一人ぼっちでお化け屋敷に閉じ込められている。運が良ければ出られるが、ここで一生を過ごすことになるかもしれない。そんな時に外から「頑張れ〜」と言われても絶望しかないだろう。「こんなに苦しいのなら死んでしまいたい」。そんな気持ちにすらなるだろう。

ではお化け屋敷の外の人はどんな声をかければいいのだろうか。

「わかるよ」。
いや違う。あんたは入っていないのだから、わかりっこない。

「きっと出られるよ」。
いや違う。出られるかなんてわからないんだし困っているのだから変に希望を与えられても絶望が増すだけだ。

私だったら……

「中はどんなふうになっているの? どんなふうに怖い? 話を聞かせて」

「いつまでも待つよ。出てこれたときにボロボロになっていても暖かい部屋で美味しいものをつくって迎えるよ」

「私はその部屋に入ったことはないから全部はわからないけれど、力になりたい。決して見放さない」

そんな感じが嬉しいかな。
うつ病患者をはじめとする患者のかかえる「わかってもらえない苦しみ」が少しでも減りますように。お化け屋敷の中でもそれなりに快適に過ごせるような、そんな温もりで溢れた世界でありますように。

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