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依存症を学ぶ
はじめに
筆者は2025年2月15日、静岡で開催された「日本いのちの教育学会 第26 大会 依存症-やめられない『何か』を手放す生き方を探る―」に参加した。
ここでは参加した中で気になった単語などを解説しつつ、考えたことを書き残したい。なお、大会の細かい内容については、学会からの発表を待ってほしい。
さて、「『何か』を手放す生き方」と聞いて、皆さんは何を思い浮かべるだろうか。筆者はスターウォーズのジェダイの生き方を思い出す。エピソード3の小説版では、強欲ではなく手放すことから不死への道が開かれると語られている。
ジェダイの騎士は執着や愛着といった「依存」を手放すことで強くなる。これは仏教にも通じる生き方かもしれない。そんなことを考えつつ、筆者は大会に参加した。
午前の部―医療・看護の世界から―
朝9時からの開催だったため、筆者は前泊の上会場入りした。暖かな陽気の中、最初の講演が始まった。「コロナ後に急増するネット依存予防教育プログラムの実際」という講演だ。内容は話せないが、ゲームを規制したところ初任給が上がったというデータは衝撃的だった。もしかしたら香川県は金持ちになるかもしれない。
2つ目の講演は「性依存症治療ことはじめ」という演題だった。しかしこの講演に関しては、筆者には疑問が残った。それは性犯罪者として登場する事例が、すべて男性であったことだ。女性による不同意性交も実際あるし、現代問題化されているように思う。またこの大会の別の講演でもそういった被害が報告されていた。
それにも関わらず、性犯罪の原因――たとえば痴漢――に、男尊女卑とか家父長制とか今の日本に残っているのか謎な要素を挙げるのは正しいのだろうか。講演者の書籍を読んで、また考えてみたい。読んでみたい本はこれ。
次の講演は「薬物・ギャンブル・自傷を止められない」で、午前の中で特にスリリングというか、筆者の専門に近かった。気になったタームのひとつは「小児期逆境体験」。例えば「子ども時代の逆境的体験がもたらすもの」というHP[1]では、小児期の逆境的体験として、次の10項目を挙げている。
1.心理的虐待
2.身体的虐待
3.性的虐待
4.身体的ネグレクト
5.情緒的(心理的)ネグレクト
6.家族の離別
7.家庭内暴力の目撃(DV)
8.家族の物質乱用(アルコール・薬物)
9.家族の精神疾患
10.家族の収監
さらに同HPでは、「積極的にケアをする人間が「たとえ一人だけでも」身近にいれば、その後のネガティブな影響は和らげられることがわかっています」としている。つまり今依存症などで苦しんでいる人は、ケアを受けられていない人間であるというわけだ。これは頼れる大人の不在と呼んでもいい。こういった状況は、グレゴリー・ベイトソンがダブルバインドとして示した幼少期の環境とも似ているものがあるだろう[2]。
さてこの講演では、人に頼ることを依存症患者に10年以上かけて教えるという話が語られたが、ここで筆者が難しいと感じるには今度はケアをする人に依存してしまうという問題だ。この問題を考える上で重要となるのは「救世主幻想」であることを、この講演で学んだ。
「救世主幻想」については、「メサイアコンプレックス」の名でも知られているようだ。次のコラム[3]によると、「「救世主(メシア)願望」によって対人関係にトラブルを生じてしまう人たちのことで、ターゲットにされた人が求めてもいない不要なアドバイスを、「人助け」や「献身性」に置き換えてしまう心理のことです」。
つまりケアをしようとする人が「救世主幻想」に陥ると、当事者に不必要なことをするばかりか、不適切な関係性(共依存や性的関係に陥るなど)を起こしかねないのである。ケアを担当する者はあくまでも自分の職責、労働時間の中で対処すべきという話だった。
午後の部―当事者、教育者、カウンセラー等の立場から―
午後一番の講演は、「ギャンブル・ゲーム依存症回復支援施設」というもので、依存症の当事者でもあり、今は支援施設で働いている現場の方がお話くださった。
依存先を正しいものに変えるというのが、この大会で繰り返し語られたことであるが、それがまた新しい借金を生んでしまうようでは問題だと筆者は感じた。根本解決が望まれるところである。
次に、「薬物乱用防止教育プログラムの実践紹介」として、看護師として学校でドラッグの危険性について教えている現場の方のお話があった。「酒は百薬の長」ではなくゲートウェイドラッグ、気を付けたいものである。
そして鼎談の前段階として、近藤卓先生の「いのちの教育とは」という講演があった。「いのちの教育」を語る上で外せないのが、基本的自尊感情と社会的自尊感情、そして基本的自尊感情をはぐくむ共有体験である。基本的自尊感情とは筆者の言葉で言えばありのままの自分の存在を受け入れられている状態、社会的自尊感情は○○ができるといった自信のことだ。基本的自尊感情は揺らがないのに対し、社会的自尊感情は「喪失」によって揺らぐ危険性がある。近藤先生は今回の講演で、共有体験を良い依存関係と述べられていた。一緒にご飯を食べる、一緒にドライブをする。それはとても貴重な共有体験なのかもしれない。
その後の鼎談を聴きながら筆者が考えていたのは、子どもの頃に与えられた方が良いもの、経験した方が良いことが抜けてしまった人は誰が救うのかという問題だ。それはSOSを受け止められる大人がどれだけ増やせるかという話にもつながる。
それはきっと順風満帆に基本的自尊感情をはぐくまれたものではなく、なかなか基本的自尊感情をはぐくまれずに、誰かに救われた者だろう。だがその救われた者を救ったのはだれかと考えていくと、無条件の愛(近藤先生によれば無条件の禁止もする)を与えてくれる神仏の存在にたどり着くように思う。とくにキリスト教の父なる神は善人にも悪人にも無条件に愛を与える存在とされている。いのちの教育と信仰について、筆者は今後考えていきたい。
おわりに
筆者は懇親会まで参加したが、ご講演をしてくださった先生の中にはご参加されていない方もおり、残念ではあったし、名刺もあまり配ることができなかった。
しかし近藤先生のサインをもらえたし、近藤先生の生歌は聴けたし、静岡おでんはおいしいしで満足のいく学会参加だった。
次は大阪でグリーフケアの学会に参加予定だ。また参加レポートを書ければ幸いである。
[1] https://www.jtraumainformed-tic.com/aces
[2] ダブルバインドに関しては以前以下で短くまとめた。
https://www.amazon.co.jp/dp/B09FZY1D5Q
[3] https://shizuko-o.com/?realestate=%E3%83%A1%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%81%AF