【#理系の読み方 第6回】小説を〝読む〟(前編)──〝ノイズ〟がもたらす「知」
『百年の孤独』を読み切れますか?
いつもお読みいただきありがとうございます。なんとこの連載も今回から後半戦に入ります!
これまでは小説を読むに当たっての(ぼくの)基本姿勢についてできるだけ噛み砕いて解説することを心がけました。
ちょっとだけおさらいすると、『理系の読み方』には文芸表現を「自然現象」として捉えることはできないかというコンセプトがあります。
それを試みるために、前半戦ではどのような技術のもと文芸作品を読んでいくのかの土台を固めてきたのですが、軸にあるのは「小説を〝解く〟」という概念です。ただ〝解く〟といっても一意的な解釈しか許されない小説なんてものはおそらくなくて、読みの多様性はむしろ作品からどのような〝問題〟を抽出できるかにあります。
そのときに大事になるのがモデリング、いわゆる〝近似〟でした。ぼくらは知っているものについて何かを考えたり述べたりするのはできる一方、知らないことについてはひどく寡黙になってしまいがちです。だから表現の世界で新しいものが出てきたとき、悲しいことに鑑賞者であるぼくらはそれについて語ることができません。それでも語ろうとするとき、似たものを引っ張り出してくるわけですが、もちろん完璧なものじゃない。どこかでモデルの改善が必要になってきます。すなわち、新しいものについて何かを論じるとき、それは論じる人間の価値観の更新も不可避的におこわなれているハズ¹⁾なのです。
これまでは技術的な基礎固めでしたので、これからは「実践編」的な内容にしていこうと思っています。具体的には「なんか世界的に傑作らしいけどビビって読めない長編」とか、語りの技巧やメタフィクションなどちょっと混みいった意匠が凝らされた作品とかを取り上げていく予定ですので、楽しみにしていただけると嬉しいです。
さて、今回はいったん非常に素朴な問題に立ち返ってみましょう。
その問題とは「そもそも小説を読むのがしんどすぎる件」。
マンガや映像に比べて、小説は文字情報を頼りに読者がみずからの想像力を作用させて能動的に物語(ないしそれに準ずるもの)を立ち上げなければ成立しないエンターテイメントです。よくよく考えると、わざわざ自分でページを捲らなければ次に進んでくれないこんなものを嬉々として読む連中は変態やんけとさえ思えてきます。
そんななか、2024年にはひとつの大事件(!?)がありました。それがガルシア゠マルケス『百年の孤独』の文庫化です。いや、文庫化しただけなら大事件とはいえません。これが何十万部という規模で刷られてバカ売れしたのです! これには控えめに言ってかなり驚きました。
もちろん『百年の孤独』は二十世紀世界文学の金字塔として素晴らしい傑作で、ぼく自身何度も読み返している超絶おもしろ小説です。小説の書き手、なかでも文学志向が強いひとなんかは、ご自分の小説観の基礎に食い込んでいるというケースも多いのではないでしょうか。
そういう紹介をすれば『百年の孤独』は世界中の老若男女に読まれて当然の作品だと皆さんを洗脳(!?)できそうではありますが、実際にはいささか玄人向けすぎるというのが気になるところです。この小説はブエンディア一族と彼らが築いた「マコンド」という街というふたつの大きな軸があるにはありますが、とんでもないエピソードが次から次と現れては去っていき²⁾、物語は闇鍋のような様相を帯びてきます。構造が独特なだけではなく、改行が少ない、登場人物の名前が日本人的に馴染みが薄い上にめっちゃ長いなど、単純な読みにくさもあります。
これについて以前、読書慣れしていないひとが『百年の孤独』を読むのは「運動不足のひとがいきなりフルマラソンを走るようなもの」という表現をしました。この作品が放つオーラから、たぶん読まなくてもこういう感じなのはだいたいのひとがうっすら感じているのではないでしょうか。それなのにめちゃめちゃ売れた。
これはかなりおもしろいことで、そこには「とにかく〝傑作〟と呼ばれるものを読んでみたい」という欲や好奇心、「〝傑作〟と呼ばれるものを読んでいないとなんとなくヤバい気がする」という不安や焦りがないまぜになっているような、「ファスト教養」という言葉も誕生した現代らしさを感じずにはいられません。
忙しいと脳みそが〝ノイズ〟を拒否する
そんななか、同じ年に文芸評論家の三宅香帆さんの新書『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社)がベストセラーになっているのが宿命的だと感じました。この本は新書らしくまさにタイトル通りの身につまされる問いからはじまり、明治以降の社会とその当時のベストセラーをピックアップしながら「労働と読書」の歴史を一望するという興味深い内容になっています。
ぼくも少しだけですが会社勤めの経験があって、この時期はあまり小説を読めていませんでした³⁾。しかし「読書」じたいはできなかったわけではなく、本屋に行けば目次に内容のすべてが書いている系の自己啓発本⁴⁾の棚へと無意識に足が向いていました。あのときのぼくは日々顧客と上司にコリコリ詰められる生活に〝答え〟が欲しかった。人生をより良いものにしたいとか、教養が欲しいとか、知的好奇心を満たしたいとか、そういうのはまったく関係なく、ただキツい毎日をやり過ごすためのハウツーがすぐに欲しかった。
三宅さんはこの「忙しさゆえに〝答え〟を求めてしまう/〝答え〟以外を拒否してしまう現象」を〝ノイズ〟という概念を導入することでわかりやすく指摘しています。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』では「文芸書や人文書は読めないけれど、自己啓発本は読める」ことについて「なぜ?」と細かく問い続け、両者の違いを「コントロール可能か否か」と定めます。
たとえば自己啓発本は目的がはっきりしています。読者は明確に知りたいことがあって、それに対する回答がそこに書かれていて、これを「ノイズが除去されたもの」としていて、インターネット検索で得られることも同様としています。一方で文芸書や人文書を読むと、その本を手に取る以前は想像していなかった問題──読者にとってアンコントローラブルな情報に出会すことが頻繁にあります。このアンコントローラブルな要素を三宅さんは〝ノイズ〟と呼び、「情報=知りたいこと」を「知識=知りたいこと+ノイズ」としています。
つまり「文芸書や人文書などを好んで読んでいたひとが勤めはじめてから昔のように読書ができなくなった」というのは、〝ノイズ〟が読めなくなったから。〝ノイズ〟を読むには、もともと求めていなかったものに対応できる心身と時間の余裕が必要なのです。
自分の守備範囲の外に出た体験の必要性は誰しもがうっすら自覚しているけれど、現実問題としてそれを実行する時間と気力はどこにあるのか──という忙しすぎる社会で、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が広く読まれ共感を集めていることと、〝ノイズ〟だらけの文芸書のど真ん中である『百年の孤独』が飛ぶように売れているのは、まったく同じ問題の表と裏ではないでしょうか。
熱力学における〝ノイズ〟
読者の想定を超える読書には不可欠な〝ノイズ〟ですが、熱力学のゆらぎがこれと似ていると直感しました。
熱力学で扱われる量は平衡状態が想定されていて、非常にたくさんのサンプルのもと得られた平均量が物理的意味を持つ値と見做されています。では宇宙みたいな密度がスカスカなところや、気体分子数がどうしても少なくなってしまう数ナノメートルみたいな領域ではどうでしょう? このケースで集団は時刻によっては平衡状態からズレています。このような数学的に理想的な値からの確率的なズレを「熱力学的ゆらぎ」と呼び、非平衡下での熱力学を考察する上でかなり重要な概念となっています。
さて、このゆらぎを考えるためにここで一匹の〝悪魔〟に登場してもらいましょう。
まず外部から孤立した箱を右と左に分けます。この箱の中には気体分子がたくさんあって温度は均一なのですが、真ん中で悪魔が監視しています。悪魔は右から左に移動する分子のうち、一定の速度を超えたものだけを左に通し、それ以外は速度を反転させて右へと弾きます。また逆に、左から右へいくものについては一定の速度を超えたものは左へと弾き返し、遅いものを右へと通します。つまり悪魔は、系(箱の中)に力学的な仕事⁵⁾をすることなく、左に速く動く分子を、右に遅く動く分子を集めるという操作をします。そしてじゅうぶんに時間が経つと⁶⁾、最初は温度が均一だったはずの箱なのに、右と左で温度差が生じていることになります。そんなバカな! 熱力学第二法則に反しているじゃないか!?
これは「マクスウェルの悪魔」という熱力学で有名な思考実験です。
結論からいうと、悪魔が箱の中の分子の状態を取得する際にエネルギーが消費されていると示されて第二法則に反していないことが明らかになりました。これは情報が熱力学的なエネルギーと等価であるという驚きの発見です。解決の糸口となったのはレオ・シラードが考案した「シラード・エンジン」というモデルで、箱のなかに分子をひとつだけ入れて、それが右にいるか左にいるかで操作を変えてみようというものです。余談ですが、ぼくが学生のときに熱力学を専門にしようと決めたきっかけになったのがこれでした。理数系の思考実験では、問題の本質的な部分を抽出するために構成要素を無限個にしたり0や1にしたりという、極端な状態をまず考えてみるというテクニック⁷⁾がありますが、この使い方が非常に鮮やかで、元の問題の本質を変えずにシンプルで美しく置き換える手つきに感動しました。
シラードが「マクスウェルの悪魔」を考察した論文を発表したのが1929年。そこで彼は「エントロピーについて、より一般的な法則が発見されるかもしれない」と言及していますが、その二十年後にベル研究所に所属していたクロード・シャノンが「情報エントロピー」という概念を導入します。情報エントロピーの式がボルツマンが導き出したエントロピーの式「S = k log W」と同じかたちをしていたのには驚きです⁸⁾。そして特に注目したいのはボルツマンは系がとりうる状態の数を、シャノンはある事象の起こりやすさをもとにしていたこと! 熱力学黎明期に多大なる貢献をしたクラウジウスが定義したエントロピーの式は温度依存、つまり平衡状態で定義できる量でした。それに対し、ボルツマンやシャノンのエントロピーは非平衡状態でも定義できます。言い換えると、これを使えば平衡状態からのズレであるゆらぎを議論できるということです。
ちなみに熱力学と情報理論がきちんと接続されるのはそれから半世紀以上かかり、2010年に鳥谷部・沙川によって「マクスウェルの悪魔」の実験が報告されました。ぼくが大学院生だった当時、ゼミでこの論文の話題になったのを覚えています。ざっくり説明すると、熱ゆらぎでブルブル震えている粒子に力学的な仕事を加えずにポテンシャルエネルギーを高い状態にしてやろうという実験です。まさに〝ゆらぎ(=ノイズ)〟の生産的な利用です。
偶然出会う些細なものが「知」のかたちを変える
というわけで、読書の〝ノイズ〟と熱力学のゆらぎを手がかりに両者をかなり強引に接続してみました。〝ノイズ〟もゆらぎもそれを含む全体からすればほんの些細なものでしかないのですが、無視できないほどの重要性を抱えているケースもあります。そして両者で共通して「価値のある情報とはなにか?」は考えておきたい問題ですね。
シャノンの情報理論で情報エントロピーは確率分布を用いてみんな知っている(=知りうる機会が多い)情報の価値は低く、誰も知らない(=知りうる機会が少ない)情報の価値が高くなるように定義されています。ここで『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』では「情報」と「知識」がノイズの有無によって区別されていたのを思い出してみましょう。自分の目的通りに得られるコントローラブルな情報というのは「知りうる機会が多い情報」です。対してアンコントローラブルな情報は偶発性に強く依存しているゆえに「知りうる機会が少ない情報」と考えられるかもしれません。
この文脈では「実生活に有益か否か」という意味で価値の高さを考えてはいませんが、この情報観について個人的にはむかし研究室の先生が言った「世界で自分しか知らないことを知りたくて研究をしている」という話を思い出します。自分が手にする情報の多くは「調べたら手に入る」ものです。自分が調べるだけじゃ得られないものを知るためには、偶然に強く左右されますし、ましてや「世界でまだ誰も知らないこと」となるとその偶然を引き当てるまで自分で手を動かさなくてはなりません。
この話のまとめとして、ひとつ見てもらいたいものがあります。
動画:アントミル(またはデススパイラル)と呼ばれる現象。(Wikipediaより引用)
これは「アントミル」という、グンタイアリが渦状に回転し続ける現象です。グンタイアリはお尻からフェロモンを出し、後続のアリがそれを頼りにあとを追う習性があります。しかし、ひょんなことからフェロモンが途切れ、円状に閉じてしまうことがあり、そうなるとグンタイアリの群はおなじ場所をぐるぐる回ることになります。最悪の場合は群れもろとも疲れて死ぬことがあるため「デススパイラル」とも呼ばれていますが、群れをその危機から救うのが「規範からズレたアリ」です。なんらかの偶然で円状に閉じたフェロモンの跡の外を進むアリが発生すれば、新たなフェロモンの道が作られ、群れはデススパイラルから脱することができます。
偶然がもたらす〝ノイズ〟やゆらぎは、こういうときに強い意味を持ちます。
自分が知りたい情報だけを摂取して得られるのは円状に閉じたかたちの「知」です。「情報」を「知識」に変える〝ノイズ〟は、円状に閉じた知のかたちを壊し、ぼくらを想定外の領域へと導いてくれます。そういう読書がすべての人間にとって正しいかどうかはわかりませんが、少なくとも小説を書いて生活している人間としては、読書とはそういうものであって欲しいです。
というわけで、今回はここまで。
次回はこの〝ノイズ〟の概念を念頭におきながら、『百年の孤独』を一緒に読んでいきましょう!
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