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ブンゲイファイトクラブ全作批評:Cグループ

Cグループ:小説における「虚」の扱い

※本稿は初稿時に誤読を含んでいたため、11/6に修正を加えています。

 有名な話で恐縮ですが、自作の彫刻に恋をしたピグマリオンはその恋の病によって衰弱し、みかねた神によってかれの作品・ガラテアは人間としての生を与えられました。自作への溺愛はさておき、しかし作家にとっていま書いている物語がどのようなものであるかの認識は重要だとぼくは考えていて、これは大なり小なり、意識的であれ無意識的であれ、書かれた作品の性質を特徴づけるものとなります。Cグループの作品から感じられたのは、虚構であるはずの自作が真実性を獲得する遷移過程、まさにピグマリオンの彫刻ガラテアが人間になるような変化でした。
 小説とは「虚」に根付いた表現形式であり、文章の表面上の意味ではない、その深層下にある状態の運動をいかに捉えることができるか。それは小説を「書く」ことと「読む」ことの双方からアプローチされるべき課題で、ごく個人的なことを述べればそこにいくらか触れることができる感慨こそ「批評をする意味」だと思います。

 和泉眞弓『おつきみ』は子に向けた二人称の小説です。親が子に向かって「あなた」と呼びかける作品は子との別れを予期する作品が多く、なかでも多いのが「子の死」を扱った作品です。もちろん、子との別れをカタルシスが作品の質を絶対的に決めてしまうわけではないですが、お話作りの観点から見ればベタな題材だけに単に事実を明かすだけでなく「いかに明かされるか」が重要になります。テッド・チャンの傑作『あなたの人生の物語』はこの点が大変にたくみで、異生物の言語を習得することで認知様式が変化し、時空を超越した親子の物語として「亡き子」を語ります。
 本作でもまた語り手がたいせつに育ててきた「あなた」への執着が語りの駆動力となっています。終盤で「あなた」が語り手のもとを去っていく様子が描かれており、連れていったのが「ほんとうのおかあさん」らしきことからはじめて語り手と「あなた」の距離が明かされます(ぼくは当初、この部分を「子の死」であると誤読していました)。子の成長を寝かせる角度や座布団の枚数で表現するなど、「あなた」への愛おしさを示す細部のリアリティについてとても優れています。ただ、そうしたリアリティの作り方がフィクション作品としては直線的な構成を、つまり「寄り道せずにまっすぐ終わる小説」にしてしまったのではないかと感じました。本作はもちろんフィクション作品として読んだのですが、「本当のことを書く」という意識が強いあまり作品の懐が狭くなっているのかもしれません。究極的には「虚」であるフィクションに「真」を見出す方法は「本当のことを語る」だけではありません。「真」を見出すためにこそ積極的に嘘をつければ、この物語の語り手自身をより深く複雑に描出できたと思います。

 北野勇作『神様』はタイトルが示す通り「神様」についての存在の虚実をめぐる物語でした。しかし、短い物語でありながらこの作品が複雑さを抱えているのは、「神様」の概念があらかじめ周到に解体されているからです。「神様はヒトを守ってくれる存在」だと共通認識として理解されていながら、この物語の語りは徹底して無神論的な感触があるところがキモだと読みました。「神様」を労働者的な観点から解釈しその神様じたいを人間が作り出してしまうこと、そしてそれが産業的な問題のように扱われながらも自然現象的解釈を逃れること、この展開の移り変わりは一見単純なプロットでありながら「神」の虚像と実像がまるでメビウスの輪のようにねじた円環を作っていて容易な解釈を拒否しているかのようです。そうした簡素な作りでありながら複雑な世界観をこのわずかな尺で実現できたのは人称の観点からではない「語り」の技術によるものに感じました。物語と語り手の距離は一人称だと近すぎて三人称だと遠すぎるけれど、本作がそのどちらの距離の取り方でもないのは「エクリチュール」ではなく「パロール」の作品だからに感じ、ぼくはこの点を最も推したいと思いました。

 倉数茂『叫び声』小林かをる『聡子の帰国』が書かれていたのは、ひとに取り憑く亡霊めいた「虚」でした。
『叫び声』から想起したのは村上春樹やレイモンド・カーヴァーの小説です。両者の作品では「ある出来事が特定の人間を致命的に以前と以後に分断してしまう」という構成をとっていて、その出来事自体が呪いめいたメタファーとしてその者の人生を支配してしまう。そういう立場から、本作では「駐車場の叫び声」がふたりの人間の人生を致命的に変えてしまった物語だと読みました。「ひとり」でなく「ふたり」の人生の致命的な変化を描いた点に高い技術を感じました。「叫び声」のメタファが女の詩集によって具現化するような恐ろしさで作品は閉じられるのですが、最初に戻る構造に芸のなさを感じたのもまた事実です。「叫び声」という事象を印象づけるべくした親切設計が作品を平凡にしてしまった気がしないでもなく、人生が変わってしまった数十年を平然と語るこの語り手自身をもう少し書ければより狂気めいたものを掘り出せたのではないかと思いました。
『聡子の帰国』はアカデミアでの成り上がりを狙う女性講師のお話です。大学教授の俗物的な小説はフィリップ・ロス『ダイング・アニマル』やクッツェー『恥辱』が先行作品としてあげられ、これらではパワハラやセクハラなどが物語の起点となりますが、本作でも一定の男性社会のなかで形成されてきた権威構造が背景となっています。『聡子の帰国』では男性社会的な権威構造に従順な聡子の下劣さへの嫌悪が徹底して書かれているのですが、気になったのは聡子のデフォルメの程度でした。アカデミックポスト競争については理系と文系では事情が異なるそうですが、たしかに「コネで採用者は決まっているけれど、規定の都合上、形だけでもポストの公募を行わねばならない」ということが今でもあるそうなのでなんとも言えない点もあります。ただ、昨今では優秀な実績があるポスドクでさえ任期無しの職に就くのが難しく、学問に対して真摯であり続けた方が自殺してしまった事件もニュースであげられるなど、アカデミアの就業問題の認知範囲もその切り口も変容してきたように感じます。学問に真摯であればあるほど高学歴ワーキングプアの沼にはまってしまう……という問題と本作は背中合わせの主題を感じる一方、諸々の話がかなり古臭い偏見に見える点で大きく損をしていると感じました。この小説は下手をすると「ただ愚痴を聞かされただけ」と読まれてしまうリスクを抱えており、強いデフォルメで造形された聡子の一面的な人格を支配する「権威への執着」という亡霊を、いかに引きずり出せるかにかかっていると感じました。それなしで聡子のデフォルメされた醜悪さだけが強調されているため、ぼくは本作には勧善懲悪的な直線構造により嫌悪感を操作するような悪意があり、この小説でもっとも邪悪なのは語り手なのではないかと読みました。この邪悪さにぼくは非常に危険なものを感じます。

 Cグループでもっとも問題作だったのが今村空車『空華の日』です。物語は「失踪者を追う」というよくある形をとって始められながら、最終的にそれまでの文脈を完全に切断し、巨大観音ロボットSFとして唐突に終わります。何を読まされたのかと作者を小一時間問い詰めたくような筋書きで、読み返してみると前半部のちんたらダラダラした記述が異様にムカつくという点で全作でもっとも好みの作品でした。「阿ゴリラ」と「吽ゴリラ」という言葉の出現に完全に批評する気を削がれてしまったのですが、がんばって読んでみると物語には常になんらかの動きがある一方、登場人物の情緒には一切の変化がなく、かなりやらかし放題の筋書きのくせに真顔ではじまって真顔のまま終わるのもイラっとしました。読めば読むほどイラっとするこの小説をどうにか推せないか5秒ほど考えてみましたが、技術的に最高水準であるこのブロックで推せるほどの勇気はぼくにはありません。他のブロックなら無責任に推していた可能性はありました。

 最終的に『神様』と『叫び声』のどちらを推すかを悩みました。この2作を比較するにあたって「手癖」に見えてしまうかが論点となりました。この観点から作品を見てみると、『叫び声』の円環的な構造には手癖っぽさ感じました。小説を書く際、話の閉じ方は大きな問題で、ぼくの話をして申し訳ないのですが習作を書くときは「必ず終わる」ような補助輪を設定します。その「必ず終わる補助輪」としてもっとも使い勝手がよいが技法が「最初と最後を繋げて円環にする」というもので、これをすると物語は必ず収まり良く終わります。しかし、必ず綺麗に閉じるゆえの狭さも同時に現れ、そこに微妙な「手癖」を感じました。その差から北野勇作『神様』をおすことにしました。


評価

和泉眞弓『おつきみ』;2点
北野勇作『神様』:5点 ★
今村空車『空華の日』:4点
倉数茂『叫び声』:4点
小林かをる『聡子の帰国』:1点

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大滝瓶太
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