自分の声、パワフルさとリアリティ。
2023/06/14のtwitterより
パワフルな演技とリアリティのある演技、いつでもこの2つの両立は難しい。騒がしく大げさな演技をすれば、不自然で、リアリティの無いお芝居になってしまうし、かといって自然さを追求して演じれば、スケール/サイズの小さな演技になってしまう。どう解決すればいいのか?
結論から言えば、リアリティを犠牲にしてでもパワフルでスケールの大きな演技をやってみたり、あるいは、パワー/サイズを犠牲にしてでもリアリティのある演技をやってみたり、繰り返しながら「速くてコントロールされた球」を投げられるようにしていくしかないんじゃないか、と思う。早い段階で片方を諦めちゃつまらない。
ところで、演じる上で、実はとても難しい最初の関門のひとつが「自分の声で演じる」ということだ。特にイプセンのような古典/翻訳劇をやっていると演技用の声になってしまって自分の声が出なくなってしまう俳優も多い。役柄と自分との差を考えて「別人の声」になってしまうこともある。どう解決すればいいのか?
自分の声で演じる、と僕がここで言っているのは「本当にリラックスしている時に使う、自分の普段使いの声で演じよう」という意味だ。だから「本当の自分を発見」なんてする必要は無い。普段使いの、いつもの、声を取り戻す。それができるだけで演技のリアリティは格段に上がる。
そのことを通じて「自分の声で演じる」ということが達成されるはず。普段使いの自分の声、普段使いの自分の体。反応できる状態、反応でついつい出ちゃう声、それを使って演技をする。リアリティとか、自然さ、にとってそれがものすごく大切だ。
自分の声で演じる、ことと関連して、自分を許すことのレッスンについても書いておきたい。俳優は自分を素材にして自分の体を見せる仕事であるのに、自分が自分であることを許せていない、もっとシンプルに言えば、自分の声、自分の体、自分の演技が「好き」じゃない俳優が多い。どうすりゃいいのか?
「好き」という言葉だと情緒的すぎるだろうか。自分の声/体/演技を肯定できない俳優が多い、ということだ。と、書いてみると、そりゃそうか、とも思う。「自分の顔ってサイコーだな!」って思える人はそんなに沢山はいないだろうが、しかし、まあ、多くの場合、それは結局、肯定するしかないものだ。
客観的に自分の声/体/演技が「優れている」と断言するのは難しいだろう。客観性/批評性を多く持っている賢い俳優さんほど「自分なんてそんないいもんじゃないですから!」と思ってしまうのかもしれない。確かに、客観的にはそうなのかもしれない。でも、好きなんて主観でいいんだよ。
自分の声/体/演技は、根本的な部分では引き受けるしかない部分も多い。性別や肌の色、髪色、瞳の色、変えられないものも多い。だから、引き受ける。客観的にどうかは一旦どうでもいいので、なんか好きだな、と言ってしまえばいい。急には難しくても、段々と、なんか好き、と思えるように。
自分の声/体/演技を、なんか好き、でいて、肯定してあげないと、「いつもの自分」を舞台上に上げることができない。それがでないと「反応できる状態/体」で舞台に立つことができない。そうなんよ。つまり、自分を肯定してあげないと、リアルな演技ができない、ということに繋がっていってしまう。
相手役に触れる、というのはもちろん勇気の要る演技だが、それ以上に勇気が必要とされるのは、「握られた手を振り払う演技」なのだろうな、と僕は思う。多くのノーラ役の俳優が、身体的に止められると、特にそれが愛情のある身振りだったりすると、拒絶の反応をすることが難しい、ようだ。
別にやったっていいのに、と思う。人を傷つけてもいいし、わがままを押し付けたっていい。図々しくていいし、無礼でいい。失礼でいいし、強引でいい。とにかく、それでも舞台上では人と、共演者と、相手役と、強く関わって欲しい。遠慮せず。無礼にやってほしい。謝罪や遠慮は、演技が終わった後ですればいい。
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