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望まない行為を強要される喜びについて

2022年12月10日のツイートより

近頃またあれこれと舞台を拝見していて思うのだが、俳優というのは本当にいろんなことを求められる仕事だ。泣いたり叫んだり、半裸になったり全裸になったり、暴力行為、罵倒、土下座…。どれも舞台の上ではよくあることだが、そんなことが「よくある」とされる仕事は本当に特殊なものだ。

ある俳優は役柄の発する差別的な発言をしなければいけないかもしれない。根っからのリベラリストが狂信的極右思想の役柄を与えられるかもしれない。本人の性的指向に全くそぐわない、いわば「生理的にしんどい」相手と恋人/夫婦役になってハグやキスをすることになるのかもしれない。

演劇・映画の業界において近年、しばしばハラスメントや強要の問題がクローズアップされる。それはもちろん、業界の抱えてきた悪しき体質の問題が大きく、反省し、改められなければいけない点が多くあることはもちろんなのだが、同時に原罪のようにセットされた演じることそのものにまつわる暴力性の問題も無視できない。たとえばオセローを演じる上では、役柄が俳優に対して「妻を殺す」ことを「要請」してくる。「誰かの首を絞めて殺すなんて絶対に嫌だ!」と思っていても、オセローを演じるからには「リアリティをもって」その行為を演じなければなるまい。この時生じる強要/暴力性は何とも避けようがない。

当然、イヤイヤながらそのシーンをやっていたり、恐怖で腰が引けてしまっていれば、「そんなんじゃ人は殺せないんじゃないか?」という指摘が稽古場でなされるだろう。いや、観客からも指摘されるかもしれない。「あんなにビビっているオセローじゃ迫力ないよ」などと。こうして周囲の状況すべてが俳優にとっての圧力となる。「リアリティをもって妻の首を絞めろ」という、およそ一般の仕事ではありえない「要請」が俳優にのしかかるのだ。どんなに優しい言葉で伝えてもその本質的な「暴力」が消えることはない。

「そういう役を避ければいいじゃないか」と口で言うのは簡単だ。だが、オファーの段階ではその俳優自身が「やった! 主役だ!」などといってオセローを演じられることを大喜びしていた可能性だってあるだろう。自分の意思に反する行為、自分なら絶対にやらないであろう行為を役柄が俳優に要請してくることは確かにある。そこには、ある種の強制性や、暴力性が必ず潜んでいる。仕方ない。自分なら絶対に選ばない人生を、役柄を通じて生きられるのが演技の喜びの根幹のひとつなのだから。

そういった戯曲、演出、あるいは観客からの暴力的な要請に対して、以前ならば俳優は黙って言うことを聞くしか無かった。だが、状況は少しづつ変わってきている。たとえば昔ならオセロー役の俳優が「なんか相手役に悪くて…」などと躊躇していたら、演出家は「もっと怒れ! でなきゃデスデモーナを殺せないぞ!」などと強く「要請」したであろう。そして、俳優の側がそれを拒絶するなど思いもよらなかったことだろう。しかし今なら、「だが、断る。」と、言えるのではないだろうか。

少なくとも「待ってくださいよ。時間くださいって」ぐらいのことは確実に言える。「ダメだ、今すぐ演じろ!」などと言えば、当然ハラスメントだろう。しかし、考えてみて欲しい。「やっぱり納得できない。オセローはデスデモーナを殺さず、話し合うべきです」などと、俳優がシェイクスピアの戯曲から完全に離れた「結論」を出す自由など、あるだろうか? 多分、無いはずだ。確かに俳優が戯曲を変更できる場合だってあるのかもしれないが、基本的にそんな要望は通らない。権利関係の問題が生じてくる場合だって多いだろうし、劇作家の創作意図を自由に踏みにじる権限など俳優には無い。

俳優は本人が望まない台詞を言わなければいけないことが確実にあるし、望まない行為を演じなければならないことが確かにある。ここに「強要」がある。俳優が俳優である限り避けようの無いものとしてそれは存在している。

要するに僕が言いたいのは、演技の楽しさ、演じる喜びの根幹と深く関わって「強要」の問題が横たわっており、その種の喜びとハラスメントをきれいに分けることなど不可能だということだ。僕がこのような問題について書いたのは、何も空想的にありもしない悩みについて書いたわけではない。現実的に、演出家として何がやってはいけない強要で、何が芸術上許容されるものなのか、その切り分けについては近頃、真剣に悩むことが増えているのだ。

たとえば近年、ワークショップを含めた創作の現場で俳優からセクシャリティについてのカミングアウトを受ける場面も増えてきた。そういう傾向になってきたのは歓迎すべきことだし、ある意味でそれは自分の稽古場への信頼なのだから喜ばしいことだとも思う。だが、たとえば男女の恋人の戯曲があって、それを演じてもらっている俳優に「そもそも男性が苦手で恋人役はできません」、あるいは「女性をそういう目で見られないんで恋人役はちょっと」などと告げられたり、もしくは「恋愛感情というものが自分にはそもそも無いんでこの役はできません」などと告げられた場合、どのような対処が望ましいのか。容易に結論が出せずにいる。

これまでの演劇・映画の現場では、頭ごなしに「何いってんの、俳優でしょ? そういう役なんだからちゃんとやってよ。わかんないなら勉強してよ」みたいな言葉で終わりになっていたと思う。いや、今だってそういう現場は多いだろう。僕自身もそれに近い対応をしてしまう可能性は十分にあると思う。

これまでそういった対応で思いを踏みにじられてきた俳優も多いだろう。それはハラスメント的な対応なのかもしれない。少なくとも、頭ごなしは良くないだろう。しかし、である。逆に「わかりました。それはあなたの個性だから尊重します。そういう役は振りませんね」という対応をしてしまったら、どうだろうか? 表面的には穏やかだが、実はセクシャルマイノリティの俳優を結果として現場から排除することになっていないのか? 頭ごなしの叱責の方が、優しく排除されるよりはマシだ、と考える俳優もいるのではないか? その意味で「理解ある」態度で行われる実質上の排除にも強く警戒が必要だし、一見、ハラスメント的に見える「強要」が、かえってセクシャルマイノリティの活動の可能性を広げることだってあるのではないだろうか。

この問題に対処する方法は上記の二択ではあるまい。俳優の悩みと真摯に向き合い、何が可能であり、何が不可能であるのか、じっくりと話し合い、コミュニケーションを重ねて芸術的な成果と心理的安全性のバランスを取るべく、しぶとく交渉を続けるのが理想だろう。そりゃそうだ。ただ、僕は思うのだ。たとえばシェイクスピア劇のような多人数が関わる舞台で、すべての俳優、全員の構成メンバーに対してそんな対応をすることが実際に可能だろうか? 現実的には舞台創作というのは限られた予算、限られた時間の中で出来る限り高い成果を目指して努力するものだ。ひとりひとりに対して最大限に丁寧な対応を取り続ける、という理想をたやすく捨てるべきではないが、無限に話し合いの時間を稽古場で作れるわけではない。かといって「じゃあ、その件については個別に話をしたいから稽古が終わってから時間をもらっていいかな?」という提案をすれば、「居残り稽古の強要」というハラスメントに問われるのかもしれない。いつだって限界があるのだ。しっかりとギャラが出るような大きな舞台になれば関係者その他、配慮しなければならない事項はますます増えていき、制約はなお強まっていくだろう。

こういった問題については表面的な傲慢さや優しさに惑わされず、本質的な意味でのインクルーシヴ、包摂について演出家をはじめ、現場にいる全員で考え続けなければなるまい。しかし、たとえ公演参加者全員がベストを尽くしたとしても、いつだってやれることには限界があるということを忘れずにいたい。理想的な稽古場が実現されないのは誰か悪い人がいたり、サボっている人がいるからとは限らないのだ。

また、最後に演出家をやっている立場から俳優の方々にもお願いをしたい。ハラスメントから稽古場が自由であるためには、もちろん権力を持っている側の勉強、努力が必要だ。権力の暴走を阻止するためのシステムが必要だ。それは間違いない。それに加えて、俳優自身が自分の欲望について、許容範囲について言葉を獲得することも重要ではないだろうか。オセローの例にせよ、恋人役の例にせよ、強い拒絶感があるなら俳優はそれを拒否して良いし、当然、演出家やプロデューサーがそれを強要してはならない。ただ、挑戦したい範囲の困難ならば役柄からの「強要」を受けて立つのもまた、俳優の仕事だと僕は思う。それが俳優としての個人の可能性を広げることもあるだろう。そして、どの範囲の演技が許容範囲なのかは俳優自身が決めることだ。もちろん、やれると思って引き受けたものの実際にやってみたらしんどかった、ということもあるだろう。その際には話し合いの場が持たれるべきだが、仕事を選ぶ段階で果たしてこれは自分が挑戦したい困難なのかどうか、その見極めはしてほしい。覚悟はしてほしい。現場欲しさに「なんでもやれます!」と言って役を引き受け、実際の稽古に入ってから「無理だ!」といって投げ出してしまうのでは誰も幸せになれない。俳優本人のセクシャリティと役柄のそれとがズレている場合にも何を許容できる/できないのか、それは誰よりも本人が決定し、伝えるしかない事柄だ。それを決めるのは俳優自身の責任だろう。

広義には、すべての演技は強要されたものである。したがって俳優は自分にとって挑戦したい、乗り越えたい強要/困難を、自ら選び取っていかなければならない。その上で、許されない強要を拒絶し、弾劾しなければならない。稽古場から「あらゆる強要(ハラスメント)」を排除することなど決して出来ないのだから。

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