場をイメージして動く、感情の対象を把握する。
2022年のツイートより
今日は「場をイメージして動く」ことに関して。
僕は俳優に対してよく「何でもいいから動いてみて」ということを提案する。その提案を受けて、ハイそうですか、とスルスル動ける俳優もいれば、急にそないなこと言われましても、と困ってしまう俳優もいる。もちろん、動けばなんでもいいというわけでもないが、それでは、何が俳優自身にとって自由を感じられるいい動きであって、何がそうでないのだろうか?
俳優の動きを本当にざっくり分けると、「身振り/手振り」レベルのその場の動きと「移動」にまつわる動きとの二つがあると思う。ここで言及するのは主に「移動」についての話だ。演じる中で、どう移動するのがいいか? 俳優は移動する時には何を頼りにすればいいのか?
結論をひとつ挙げれば「目的地を定めよう」ということになると思う。俳優が演じていてなんだかしっくりこない動き、うまくいかない動きというのは、大抵、目的地を欠いている。目的地といったって特別なことではない。例えば、机に向かって動く、でも、壁に向かって動く、でもいい。何か目的地を決めて動くだけでその動きは途端に自然になる。力を持つ。逆に言えば、うまくいかない「移動」というのはなんとなく舞台前面に向けて動いてみたり、「止まり続けているのが気持ち悪いから」という理由で上手に行ったり、下手に行ったりしてしまうものではないだろうか。
どうして「目的地」が定まるだけで動きの質が上がるのか? それは普段われわれがそのように暮らしているからだ。自由でリラックスした状態におかれた時、私たちは無目的に動かない。たとえば冷蔵庫を開けに行くとか、歯ブラシを取りに行くとか、何かしらの目的地があって移動という行動(アクト)は起きる。だから目的地が定まるとリアリティが増すわけだ。そこで伸び伸び自由に動くために、シーン稽古に入る前に舞台上のどこが「目的地」になりそうか検討してみることを提案したい。窓際に外を見に行けるな、とか、ソファに座りにいけるな、とか、椅子の背もたれを掴みにいけるな、とか、机の後ろに隠れよう、とか装置を眺めて想像してみてほしい。いつどんな風に動くかは決めなくていい。でも、何をするためになら動けるのか? それを舞台装置との関係の中でイメージできるといい。それだけで随分、自由に動けるようになるんじゃないかと思う。
どんな舞台にも大抵存在して、一番頼りになる「目的地」は共演者に他ならない。例えば「相手役に近づこう」あるいは「遠ざかろう」というふたつの動き。これを基本にするだけで相手も動いていれば結構バリエーションができる。言い換えれば、自分がその人物と近づきたいのか/遠ざかりたいのかが見えているだけで、舞台上での居方が定まる。たとえ動かずに立っているのだとしても、「遠ざかりたいけどその場に留まっている」のか「近づきたいけど近づけない」のかで立ち方も変わる。大切なのは「目的地」を持つこと。その目的に対する衝動を感じること。
と、まあ、ここまでは今までもよく考えてきたことだ。今日はそれに加えて「場のイメージ」を持つと更に自然に、自由に動けるんじゃないかということについて書きたい。「場のイメージ」というのは、舞台上のその場所が喫茶店なのか、会社の会議室なのか、公園のベンチなのか、という場所についてのイメージであるとともに、相手との関係性/人間関係における立場のイメージでもある。
例えば「どうぞお掛けください」といって相手役を座らせる時、どこに座らせたいか、という目的地の意識とともに、自分がどこにいるか、自分はどの立場で相手はどの立場の人間なのか(ステイタス)、そういった「場」に関するイメージをしっかり持っていると良い。相手と自分との関係性をイメージして移動することができれば動きに具体性が出て、自然に動けるようになるはずだ。なぜか。これもやはり、普段私たちはそう暮らしているからだ。そのためリアリティが増す。私たちが普段、誰かに席を勧める時、座った後のその相手と自分とがどういう位置関係になるのか、どういうステイタス関係にあるのか、それについてのイメージを持っている。
もう一点、今日は別のトピックについても書いておきたい。「感情の対象」についてだ。今度は打って変わって内面的、心理的な話になるのだが、演技に具体性、リアリティを持たせるためには「感情の対象」を意識して演じることがとても有効だと気づいた。
もちろん、演技する際に感情について考えることには相当な注意が必要だ。感情は目指すものではなくもたらされるもの、というのはよく言われることだが、要するに人は大抵、怒りたいと思って怒らないし、喜ぼうと思って喜ばない。大抵、感情というものは、事後的に思ってもいない状況でふと「もたらされる」ものだ。突然の知らせに悲しくなってしまう、相手の失礼な態度にイラついてしまう、どれも「思わず」出てしまう感情だ。だから、戯曲を読んで登場人物が怒っているシーンだと解釈したからといって、俳優が「怒ろう」と意図すると失敗する。登場人物は「怒ろう」などと考えて行動していない。むしろその逆に「怒ってはいけない」とか「揉めたくない」などと考えているのに、それにも拘わらず「怒ってしまう」という現象が起きている場合が多いのだ。
そんなわけでどんな「感情」が湧き上がるかについて、演じる前に決めてしまうことには危険がある。ただ、そういった注意を払いつつも、やはり俳優は自分の演技を言語化していくことも大切だろう。特に戯曲のサブテキストについて検討する際には、登場人物の心情について想像してみることが有効だ。このセリフ、どんな気持ちでいうとんねん? ということにはやっぱり考えてみる価値がある。その際に、それらの感情が何を対象として起きているのかを知っておくと、演技の自由度が高まるように思う。どういうことか。
自分の演じる役、例えばイプセン作『ヘッダ・ガーブレル』のテスマンだったら、「へッダをどうさせたいのか?」「ヘッダにどうなってほしいのか?」という、感情の対象が見えていると、彼女の態度に対して文字通り一喜一憂できる。「ヘッダに喜んでほしい」「笑顔になってほしい」という形で感情の対象が定まっていれば、ヘッダが不機嫌な様子であれば「不安」「心配」「悲しみ」などの感情が自然とわきあがってくるだろう。相手をどう動かしたいのか、対象にどうなってほしいのか、これが見えていると複雑な感情を生きられる。
また、「感情の対象」ということを意識していれば複雑な状況を理解する上での補助線にもなるだろう。例えば葬儀のような「悲しい」状況において、親戚の子供が心から「おいしい!」と発言したとして、その時自分がふと笑顔になってしまったとする。これは比較的、複雑な状況と言えるだろう。単に感情を静的な/固定化された「状態」として捉えてしまうと、この時、登場人物は悲しいのか? 嬉しいのか? 楽しいのか? と、混乱してしまうかもしれない。でも、感情の対象について考えていれば動的な整理ができるんじゃないだろうか? 「葬儀」という状況、あるいは「◯◯さんが亡くなった」という事実に対しては「悲しみ」を抱きつつ、子供の「おいしい!」に対しては「嬉しさ」「愛おしさ」を感じる。もちろん、そこに矛盾はない。複雑だけど曖昧ではない。それぞれの対象に向けてそれぞれの感情が起こっているだけだ。
何に対してどんな感情を抱くのか? という形で「感情の対象」について考えてみると、演じていてしっくりこない時間帯について、より深く検討してみることが可能になるだろう。複雑だけど曖昧ではない演技ができるようになる、んじゃないだろうか。
さらに「感情の対象」の前提として、誰に、どうなってほしいのか? という「相手役にまつわる目的」が明確になっているとますますクリアに状況を把握することができる。たとえば「テーアを油断させたい」という形で相手役にまつわる目的/動機が定まっていれば、複雑だけど曖昧じゃない演技ができるはず。表情に出すべきこと、隠すべきことが定まっていくんじゃないだろうか。