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「ケア労働」へのまなざし 『あるじ』

 夏の暑さもようやく落ち着いてきた頃、フィンランドの画家ヘレン・シャルフベックを描いたアンティ・ヨキネン監督の『魂のまなざし』を観ました。画家としての自分を生きようとするシャルフベックの強いまなざしと、スクリーンにときおり映る絵画のような場面が心地よいリズムを作り出していました。年代としては1915-1923年を扱っており、これはフィンランドの女性参政権が成立した1906年から少し経った頃です。映画では、参政権から発展しない女性運動に対する苛立ちが描かれる場面もあり、参政権の獲得によって女性の権利が一気に向上したわけではないことを実感しました。では、『魂のまなざし』と同時代の北欧映画は、どのように女性を描いていたのでしょうか。
 今回は、それがわかる映画として、デンマークの映画監督カール・テオドア・ドライヤー(1889-1968)の『あるじ』(1925、無声映画)を紹介したいと思います。この映画は、当時として革新的な「ケア労働」へのまなざしが表現された作品であり、フェミニスト映画だと私は考えています。
 現在、「ケア労働」は、倫理学・政治学・文学などにおいて、これまで見過ごされてきたその価値について積極的に論じられています。また、フェミニズムにおいて、「ケア労働」は重要なキーワードとなっています。

 それでは、詳しく『あるじ』の世界を見ていきましょう。
『あるじ』は、コペンハーゲンのアパートで暮らすフランセン一家を描いた室内劇映画で、デンマークの脚本家兼映画俳優だったスヴェン・リンドム(1884-1960)が書いた舞台劇『暴君の失墜』が原作となっています。かなり古い映画なので劇場で観られる機会は限られていますが、デンマーク映画協会がWebサイトで公開しているので自宅でも観ることができます。

「Den danske filminstitut, CARL TH. DREYER LIV OG VÆRK.」中間字幕:英語

 

 フランセン一家は5人家族で、妻イダは横暴な態度を取る夫ヴィクトルに毎日振り回されながらも懸命に子どもたちの世話や家事をこなしています。昼間はヴィクトルの昔の乳母マッスが手伝いに来ています。ある日、召使いのように働くイダを見かねたマッスは、イダの母と相談しイダをヴィクトルから離し静養させることにします。そして、マッスはヴィクトルに厳しく接し、自ら家事や育児をするように指導します。しばらくしてイダが静養から戻ると、ヴィクトルの態度は以前とは見違えるように変わっていました。そして、フランセン家は再び生活の鼓動を取り戻すのでした。

 本作のデンマーク語原題はDu skal ære din Hustru(汝妻を敬うべし)で、舞台劇の題名『暴君の失墜』から変更されています。この点については北欧映画研究者の小松弘さんが、「題名からだけ見るならば、芝居の方は男性(暴君)が中心となり、映画の方は女性(妻)が中心とされている所を見てもわかるように、ここにもドライヤー的な好みがはっきりと表れている。」[1]と述べているように、本作には家庭における女性に対するドライヤーのまなざしが映っていると感じます。
 なお、邦題『あるじ』は、英題がMaster of the Houseであることから、そこから訳されたと考えられます。したがって、邦題『あるじ』にはドライヤーの好みが反映されているとはいえない点は注意すべきでしょう。

 本作のカメラワークや編集は、フランセン一家のアパートを覗き見しているような感覚をもたらします。ドライヤーというと『裁かるゝジャンヌ』(1928)にみられる顔のクロースアップの印象が強いのですが、本作では手元のクロースアップで細やかな動作がとらえられ、家事労働をつぶさに観ることができます。また、家庭に女性の存在が戻ると止まっていた時計が再び動き出す演出は、この後のドライヤー作品とのつながりを感じさせます。
 本作では、フランセン家を舞台に妻イダと夫ヴィクトルの日常を通し、家庭における育児・家事労働の重要性と、それを妻と夫の両方が平等におこなうことの大切さが描かれます。ここには、自己犠牲的に家族に奉仕する妻を賛美したり、家庭に押し込まれている妻が個として自律/自立するような内容は含まれていません。フランセン一家を見つめるカメラは、夫ヴィクトルが育児・家事労働の重要性に気づき、育児・家事労働も家庭外の賃金労働と同様に価値があることを受け入れてゆく過程を静かに捉えています。つまり、この映画のまなざしは、育児・家事といった現代において「ケア労働」と呼ばれているものに向けられているのです。そして、ヴィクトルの変化を通し、男性も「ケア労働」を担うことを促していると感じます。
 このように1世紀も前の映画が、家庭内の「ケア労働」にまなざしを向け、それを家庭内の女性だけでなく男性もおこなうことの大切さを描いていることは、注目に値すべきことだと思います。このような点において、『あるじ』は現代でも古さを感じさせない作品だといえるでしょう。
 『あるじ』が封切られた1925年は、デンマークで新しい婚姻法が施行された年でもあります。この婚姻法によって家事労働が賃金労働と同等に扱われるようになりました。もちろん、この法律によってすぐに家庭内が変化したわけではないことは明らかです。しかし、確実に新たな風が吹き始めていたのです。このような社会状況に『あるじ』も何らかの影響を与え、女性の地位向上に寄与したのかもしれません。


基本情報
『あるじ』1925年製作|106分
製作国:デンマーク
原題:Du skal ære din Hustru(汝妻を敬うべし)
監督:カール・テオドア・ドライヤー
脚本:カール・テオドア・ドライヤー、スヴェン・リンドム
出演:ヨハネス・マイヤー、アストリズ・ホルム、カーリン・ネレモーセ、マチルデ・ニールセン、クララ・イェンフェルズ、ヨハネス・ニールセン 


気になる北欧映画

『LAMB/ラム』(アイスランド・スェーデン・ポーランド合作、公開中)
9月23日よりヴァルディミール・ヨハンソン監督の『LAMB/ラム』が公開されています。ジャンルとしてはホラー映画のようですが、予告からは『ボーダー 二つの世界』(2018)のような雰囲気を感じ、ホラー映画が苦手な私も興味を惹かれています。
『LAMB/ラム』トレーラー

『MISS OSAKA ミス・オオサカ』(デンマーク・ノルウェー・日本合作、2022年10月21日より劇場公開)
『MISS OSAKA ミス・オオサカ』が、いよいよ今月公開されるようです。この作品を知ったのはクラウンドファンディングをしていた2019年で、その時から封切りを待ち望んでいました。寒々しいノルウェーの大自然からビビットなネオンが輝く大阪へ、透明感と寂しさを持った音楽、重なり合うイネスとマリアの人生、これらから紡がれる物語に期待しています。

『MISS OSAKA ミス・オオサカ』トレーラー


[1] 小松弘2012「都市生活者のリアリティー:室内劇映画『あるじ』が語ること」『CARL TH. DREYER Blu-ray BOX Ⅱ:あるじ』解説リーフレット、発売:シネマクガフィン、販売:紀伊國屋書店、協力:ザジフィルムズ。


著者紹介:米澤麻美(よねざわ あさみ)
秋田県生まれ。マッツ・ミケルセンの出演作からデンマーク映画と出会い、社会人を経て大学院でデンマーク映画を研究。法政大学大学院国際文化研究科修士課程修了。



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