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とある中毒

端書き

ふと、あるゲームのプレイ日記をブログに書こう、と思い立った。

少し前に個人的興味の調べ物でnoteの一記事を目にしていて、何となく記憶に残っていたのでプラットフォームはそこでいいか、と安易に登録した。

アカウント各々のホームにタイトルがない等、ブログプラットフォームと言うよりmixi類似のSNSに近いなあ、ぐらいの初見認識だったが、よくよく取説を読んでみると、どうも一般的なブログを書く場ではない。ゲーム日記などもってのほか、何か勘違いしてないかお前、とつまみ出されそうな雰囲気。

正直これは、と思ったが、元よりTwitterの文字数に収まりきらない雑文をメモに書き散らしては抱え込んでいる事情があり、件のゲーム日記の合間に吐き出していこうという思惑もあった。多分に衒学趣味的で、学術的裏付けも何も無い、「僕はこう思います、客観的な事実や評価は知ったこっちゃない」という純然たる主観。


唐突な読み飛ばし推奨文

ブログやTwitterを含むSNSは本来、そういう個人の主観をさらけ出し、時にぶつけ合う場だという認識でいるが、同時にそれは読者という第三者による客観的評価に晒される。読者が第三者性を失い、主観的なレスポンスを投稿者に直接返すならば、本来あるべき主観同士のコミュニケーションに過ぎないが、そうではない大多数の無言の衆目、その代弁者として第三者のまま評価を下す、あるいは間接的なレスポンス(「こいつこんなこと言ってました」って他所でやる)…主観に対する客観の暴圧が、SNSの頭のS、ソーシャルの現状になっている。

その暴圧に耐えかねて、客観に迎合した投稿が現在のSNSを席巻している。「僕はこう思います」ではなく、「世間はこう思っています」という言わずもがなの空文。それによってSNSは世間や常識の縮図となり、客観の代名詞とすら扱われているが、本来は上記のように主観の集合であるべきで、数多の主観の最大公約数的な妥結を結果的に客観(ソーシャル)とするのみなのだ。それはいわゆるまとめサイトや報道機関の行う分野であって、SNSに最初から妥結点を念頭に当たり障りのないことを書くのは、投稿者の主観を放棄している。

繰り返すが、これは本質的には読者側の問題だ。主観に対しては主観的な解釈しか許されず、客観的な立場しか取れないのであれば(『常識的に』間違っている、など)最後まで無関係を貫くしかない。別の世界の住人、触れたらあかんやつとしてそっとしておくことだ。それができずに、「それ違うで」と客観的評価を下すから齟齬が生じ、時に炎上する。それを恐れた投稿者はやがて主観を放棄し、読者は心置き無く客観の権威を振るう。

結果が、「いいね」や「そう思う」のファボ数を競うような風潮であって、ファボの意味も本来の「私も同感!」「考えさせられた!」という主観のレスポンスよりも「よく世間一般を代弁しましたね!」という客観性に対する評価が大多数となっている。ファボする側はそれによって自身が常に客観側にいることを示し、投稿者はより一層自身の客観性を表すことに腐心する悪循環。

本来主観を吐き出すだけの場で、いかに自分が客観的かを誇示し、競い合い、時に相反する意見の主観を炎上という暴力で排除する(燃えてる側も、主観じゃなく勘違いの客観を書いたつもりでいるのがままある…客観を独自解釈したものを主観と呼ぶんだが)。

正直これは、かなり気持ち悪い。個人によるSNSの動機は大なり小なり承認欲求があるが、客観評価はそれを量的にしか充足しえない。自身の欲求の質的な充足を放棄してまで、ただ量を得るためにだけSNSを利用する感覚は、僕にはない。

また、根底には「世間一般に向けて書くモノには客観性が必要だ」という錯誤もある。誰得でもないオナニー駄文はチラシの裏にでも書いてろ、という。しかし、Twitterやブログ、ヤフコメ、mixi…あらゆるSNSの本質は、コミュニケーションツールではなくチラシの裏なのだ。世間一般向けに書いたモノだから公開の場を、という動機ではなく、自身のオナニーを人に見せたい/他人のオナニーを見てみたいという、変態的承認欲求と好奇心によってSNSは成立している。コミュニケーションや相互評価は副次的な行為に過ぎない。

綺麗な換言をすれば、他者の価値観に触れることで自身の価値観の変容を促すことがSNSの主眼にはある。もちろん、各々の価値観は合致することも多いだろう。しかし、常に価値観(主観)を擦り合わせて「客観」という共同幻想を構築することを目的化してはならない。


フィヒテ「自分に合った哲学をやれ」

というように、文章を校正する/短く簡潔に、ということができない。あれもこれも、簡単に言えば、ついでに言えば…同じ意味のことを延々と垂れ流す。しかもこの一文一文の全てに、「と僕は思います」という省略された語尾がつく。自分語り中毒、記述することで自身の価値観を再認識し続ける、カッコよく自己分析が得意です、とか誤魔化しているけど。ナルシズムと言うよりは、ニーチェズムを信奉している。信奉しているだけで現実は主観的観念論を振りかざす無能力者、超人には未だ至らず。

当然、Twitterごときでは収まらない。なおこのツイ垢は9割方ちゃらんぽらんの頭でっかちゲームオタで、客観視すると正気に耐えない。当然客観視などしないが。

僕の承認欲求は、他者や社会に向けたものではない。アンチテーゼの自己疎外なる面妖な精神論でもない。いついかなる時も「僕はこういう人間です」と自分語りができる、主観論者の実存証明である。公開されたSNS投稿の意義は読者の主観を揺さぶることにあると上記したが、それを期待したり意図したりはしない。客観的にはどういう反応をすればいいのかも書いた。触れたらあかんやつである。

ささやかに期待するのは、僕自身のこの主観の変容。それは他者からぶつけられた他者の主観によってもたらされる。その導火線としての自分語り、僕はこういう人間です、あなたは?

Twitter等でも度々試してはいるが、散々書いたように今や多くのSNSは主観のぶつけ合いを忌避している。本音を語らないのですらない、客観以外の本音を持とうとしない。ポストモダニズムは文章から作者の主観を読み取ることを放棄したが、作者がそもそも行間に何も仕込んでいないという事態を想定していたのだろうか?

主観のぶつけ合いと言って、レスバトルや議論がしたいのでもない、SNS上のコミュニケーションは副次的な産物であるとも書いた。無造作に、無意味に、不毛に、便所の落書きのように多様な主観、自分語りが散らばっている、用を足しに来た者が面白がって、自分も何か書いていくかとペンを取り出す、SNSとはそれだけだという感覚でいたい。

フォローとサポートの違い理解してなくて、調べてみてビビる