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取説を2点

ぼちぼち書いていこう。太字なんかも入れていこう。


自分語りに命をかけている(大袈裟)主観論者にとって、何よりも耐え難いのはテンプレ化されること、「ああ、つまりあなたは『これ系』なのね」と、どこかの誰かと一緒くたの「客観の系」に、人格をカテゴライズされることだ。

もちろん主観論者やニーチェ信奉といった性質も、厳密には客観的なカテゴライズになるのだが、それらは個々の具体的な人格までを規定しない。言わば広義のイデオロギーで、人格の根幹を成す政治思想等の狭義のイデオロギーとは隔絶している。

ニーチェ信奉の時点でヤバい、お近づきにはなりたくないという向きもあるだろうが、それは普遍的な支持を得ていない個人の主観、好き嫌いに過ぎないので余裕でOK。というか信条による好き嫌いをはっきり主張(自分語り)してくれる個人、それこそが僕の望むところである。

例えばニーチェズムに近づく前提として、末人の僕はニヒリズム/虚無主義に立つが、それだけを持って「ああアナキストか」というように政治思想まで規定されたくはない。僕の投稿を読んで「こいつはもしかしたらアナキストか?」という主観を抱くのは自由である。しかし、ニヒリズム=アナキズムというような短絡的なバイアスによる客観的規定/テンプレ化であるのなら、僕は軽蔑する。

私には政治的イデオロギーはありませんが、投稿からそれを読み取るのは読者の自由です。これだけを書くのに、どれだけの文字を費やしているのか。



昨日の投稿でちらりと触れたが、ポストモダニズムによる文芸批評の方法論、行間を読まない/作者の主体性の喪失は、はっきり言ってク ソだと思っている。作者の筆力、読者の読解力の無さを棚に上げる方弁だとすら思う。

これだけ文章が冗長になることから自明のように、僕は行間を読ませるよう含意させることがほぼできない。1から10まで、場合によっては注釈つきで1´から10´まで、筆力を省みずとにかく書こうとする。そもそも読者存在の想定が希薄なこともあるし、その数少ない読者の読解力をも、正直舐め腐っている。

首を絞める自ツイート引用、どうもツイ垢の宣伝でnote始めたようにも見える。閑話休題。

それでも、行間を意識はしているのだ。読ませようとしているわけでも確信犯的に何か仕込むわけでもないが、少なくとも「これだけ逐一書いても深読み裏読みしようとするような人が、読者になる可能性」を忘れたことはない。作者の僕ですら行間に仕込んだ自覚がない、僅かだがあえて書かなかった文や構成的に書ききれなかった文、それを読解して見せる賢人が現れる天文学的な確率を、期待していないとは言えない。

行間を読むかはさておき、自分語りである以上、主体性はバリバリ作者の僕にある。行間を含めた文章全体の含意は僕の主観であり、それはポストモダン的な読解によって抽出した文章の本質でも変わらない。

恐らくポストモダン的には僕の文章は、「自分語りの文体を採った社会風刺」というような解釈になることが多いと思うが、では「誰」が社会を風刺しているのか、それは絶対的に僕個人であり、そしてそれは特定のイデオロギーや倫理の代弁という客観的見地からではない、どこまでも僕の主観によるものなのだ。



主観とは端的に「俺的にセーフ/アウト」の価値観に代表され、その基準は必ずしも一般常識や倫理とは一致しない。

まあ、大多数の人間はほぼほぼ一致しているからこそ「一般常識」であるわけだが、その優先関係を逆転させてはいけない。「俺的にアウトだわ、まあ普通に考えて誰が見てもアウトやろ」はいいが、「常識的に考えてアウトやから、俺的にもアウト」は主観を放棄している。

僕の場合は一貫して「俺的にアウトかな、一般的な解釈?知らん興味無い(他の個人の解釈には興味ある)」というものであり、それを必ず明記している。クドい、本当にクドいが僕の文章は「俺的にセーフ/アウト」を延々と吐き散らすだけのものであり、読者に対してだからどうだというものは一切ない。

読者には各々の主観で、論題や作者の僕をセーフ/アウト判定する自由がある。ただし、その論拠が「一般的には…」「常識的に考えて…」とならないように願うばかりである。

フォローとサポートの違い理解してなくて、調べてみてビビる