異色の代表キャリアを持つサッカー選手達(北中米カリブ海版)
「あの選手はどこの代表チームを選ぶのだろう」
気になった若手選手が、複数の国を代表できる権利を持っていたとき、こう感じたことはないでしょうか。
あの選手が〇〇代表を選んでいたらどんなキャリアを描いていたんだろうか
もしかしたらW杯に出れていなかったかも
もしくは逆にW杯で大暴れしていたのかも
と色々妄想するのもサッカーを楽しむ要素の一つですね。
今回はそういった複数国籍を持つ選手の異色の代表キャリアを持った選手の中から、北中米カリブ海地区にルーツのある選手を紹介していきたいと思います。
あと一歩で大舞台を逃していた実力者
まず一人目はキュラソー代表MFのフルノン・アニータ
数年前のヨーロッパの選手名鑑を見たことがある人は「アニータってオランダ代表じゃなかったっけ?」と思う人もいると思います。
アニータは元々キュラソー島の生まれでその後オランダへ渡ってサッカーのキャリアをスタートさせました。
名門アヤックスでは主力として活躍し、2010年にはオランダ代表にも初招集しデビュー。南アフリカW杯の予備登録メンバーにも選ばれましたが、惜しくも本大会メンバーには残れず。2年後のEURO2012でも予備登録メンバー入りしましたが、こちらも落選。
その後、ニューカッスル・ユナイテッドに移籍したアニータですが、以降はオランダ代表から声がかかることはなく、ニューカッスルとの契約を終えた後に加入したリーズでは評価を落とし、その後ブルガリアのCSKAソフィアに加入しますがコロナの影響もありほとんど出場することなく退団。
現在はオランダ・エールディビジのRKCヴァールヴァイクに所属しています。
2010年にEURO2012予選のフィンランド戦にオランダ代表として出場したことによって、キュラソー代表入りができなくなっていたアニータですが、2021年にFIFAの代表変更のルールが改定されたことによって、変更の条件を満たしていたアニータはキュラソー代表入りが可能に。
そして代表招集に応じたアニータはW杯予選のセントビンセント・グレナディーン戦に出場し、キュラソー代表デビューを果たしました。
これにより、アニータはオランダ代表とキュラソー代表の両チームを経験した初の選手にもなりました。
FIFAのルール変更による恩恵を受けキュラソー代表となったアニータ。
もしも主要大会のメンバーに選ばれていたら・・・
代表監督からの評価が違っていたら・・・
また彼のキャリアは異なるものになっていたかもしれません。
選んだのは、キャリアを形成した”第4の国”
続いて紹介するのは、元オランダ代表MFのジョナサン・デ・ガズマン。
デ・ガズマンはカナダでフィリピン人の父親とジャマイカ人の母親の間に産まれました。カナダでの少年時代にサッカーを始めると、12歳で海を渡りオランダのフェイエノールトのユースアカデミーに入団。18歳となった後トップチームで出番を得ると主力として定着。
2008年2月にオランダ国籍を取得すると、直後にオランダU-21代表に選出され、彼の出生国であるカナダのサッカーファンは大きな失望を味わうことになりました。
(彼の兄であるジュリアン・デ・ガズマンはカナダ代表を選択していた)
その後、デ・ガズマンは北京五輪のオランダU-23代表にも選ばれました。
その後FIFAの代表ルールが変更されたことにより、2011年時点でオランダのA代表でプレーしていなかったデ・ガズマンは市民権を持つオランダ、出生国のカナダのほかに父親のルーツであるフィリピン、母親のルーツであるジャマイカでのA代表選択が可能に。
特にカナダサッカー協会は積極的にアプローチを続け、デ・ガズマンも兄ジュリアンとのカナダ代表入りに興味を持っていたようですが、2012年にオランダA代表入りを決意。翌2013年に待望の初招集を受けデビューを果たし、2014年のブラジルW杯メンバーにも選出されました。
両親のルーツや少年時代での移住などもあって、3つの代表チームを選ぶ権利のある選手は結構多いのではないかと思いますが
ジョナサン・デ・ガズマンのように、その資格を有していながら自らのキャリアを形成した国を代表に選ぶというのも、また異色な代表キャリアなのではないかと思います。
プロデビュー戦の「事件」がキャリアを変えた?
続いては、ニカラグア代表DFのルイス・コペテ。
コペテはいわゆる「帰化選手」で、生まれも育ちもコロンビアです。そんな彼がニカラグア代表になった経緯には、プロデビュー戦のある「事件」が関わっていました。
コペテは2009年にコロンビアのCDラ・エキダでデビューを果たしましたが、試合後にある事件が発生しました。
コペテが年齢を偽造した書類を提出していたことが発覚したからです。コペテは当時20歳でしたが書類では18歳となっており、年齢を詐称した理由としては当時のコロンビアリーグに「若手をデビューさせるルール」があったようで、彼自身も「家族を財政的に助けるためにやった」と語った模様。
結局、この事件でコペテはコロンビアサッカー協会から1年半の出場停止処分と罰金処分が下されることになってしまい、クラブからも解雇されてしまいました。
それから程なくしてコペテは、細かい経緯は不明ですがコロンビアからニカラグアへと移りしばらくの間プロサッカーからは離れていましたが、2013年にニカラグアのマナグアFCと契約し再びプロサッカー選手としてのキャリアを歩み始めました。
2009年からニカラグアで暮らし、2011年の時点でニカラグア国籍を取得していたコペテは代表入りが可能となった2014年にニカラグア代表に呼ばれると瞬く間に定着し、代表に欠かせない主力の一人となりました。
以降はニカラグア国内のチームやエルサルバドル、南米のチームを転々としながらプレーを続けています。
もしも年齢詐称事件がなかったら、コペテはニカラグア代表としてプレーすることは無かったのかも知れません。
鞍替えが、”後から”認められなくなった選手
次に紹介するのは、ドミニカ国代表FWジュリアン・ウェイド。
ウェイドはドミニカ国で生まれ、ドミニカ国の年代別代表でもプレーしてきました。そして彼が19歳になった2010年に、モントセラトのイデアルSCで選手のキャリアをスタートすることになりました。
モントセラトで高い評価を受けたウェイドはその年にモントセラトのA代表から招集を受けデビューを果たすと、翌年のW杯予選のベリーズ戦にも出場するなど、モントセラト代表として4キャップを刻みました。
しかし、この後FIFAからウェイドに
『ウェイドは、新しいルールの下ではモントセラトを代表する資格がない』
という宣告をされてしまいます。
詳細が書いてあるページが見つからなかったので細かいことはわからないのですが、当時のモントセラト代表監督の一文に「ウェイドは帰化したモントセラト人ではない」とあるので
おそらくは過去に居住歴があり当時は代表入りが可能も、その後にFIFAのルールが変わったことによりウェイドはモントセラト代表の資格を失ったということではないのでしょうか(ここはあくまで自分の推測です)。
過去にもクリフォード・ジョセフという選手が、同様にドミニカ国からモントセラトへ鞍替えをしているようです。(こちらも詳細は不明)
モントセラト代表の資格を失ったウェイドですが、ドミニカ国に戻った後にトリニダード・トバゴのカレドニアAIAというクラブと契約を結び、ドミニカ人選手史上初のプロサッカー選手となりました。
2014年にはドミニカ国のA代表としてデビューし、2022年現在では41試合に出場し19得点を挙げドミニカ国代表の歴代最多得点者となっています。
現在はスコットランドの5部リーグに所属するブレヒン・シティFCでプレーをしています。
異国の地で代表入りするも後から認められなくなり
祖国の代表となりエースとなる・・・
彼以外にこのような代表キャリアを歩む選手は果たしているのでしょうか。
フランス代表80試合出場の大物が強行出場で…
続いて紹介するのは、元フランス代表MFフローラン・マルダ。
マルダはリヨンやチェルシーで活躍したビッグタレントで、フランス代表としても80試合に出場。W杯には2006年ドイツW杯と2010年南アフリカW杯でメンバー入りし、EUROでも2008年と2012年にメンバー入りした国際経験豊富な選手です。
そんなマルダは元々フランス領ギアナというフランスの海外県出身です。
地理的には南米ですがサッカー協会はCONCACAF(北中米カリブ海地区サッカー連盟)に所属しており、またFIFAに加盟していない協会でもあります。
なので、フランス領ギアナ代表はFIFAが主催するW杯には出場できませんが、CONCACAFが主催するゴールドカップには出場が可能です。
マルダは2012年を最後にフランス代表から遠ざかり、チェルシー退団後はインドやエジプトでもプレーを続けていましたが、2017年の6月にあるところから声がかかります。
それはフランス領ギアナ代表からの代表招集で、マルダはゴールドカップ出場に向けた予備登録メンバーとして選ばれることになりました。
ゴールドカップはCONCACAF主催の大会であり、代表チームがFIFAに所属していないこと、マルダが最後のフランス代表招集から5年経っていることもあって、マルダも代表招集に応じ親善試合のバルバドス戦でデビューを果たしました。
マルダは最終メンバーにも選ばれ、CONCACAFも当初はマルダのメンバー入りを認めていました。
しかし、開幕を直前にCONCACAFは「マルダは、ルールに抵触していて出場することができない」と通告してきました。
2017年のゴールドカップではFIFAのルールを適用することになり、フランス代表として国際大会に出場してきたマルダはゴールドカップに出ることが認められないということになってしまいました。
(過去にはフランス代表として37試合に出場していたジョスリン・アングロマという選手がグアドループ代表としてゴールドカップに出場していた。)
こうしてマルダは、ゴールドカップ出場が叶わなくなってしまった・・・
と思われた矢先に事件が起こります。
なんとグループリーグ第2試合のホンジュラス戦で
キャプテンマークを巻いてスタメン出場しているマルダの姿が
どうやらフランス領ギアナ側もCONCACAFの決定に反対を示していたようで、それがマルダの強行出場に繋がったと言われています。
マルダもチャンスに絡むなどして強敵ホンジュラスに0-0のスコアレスドローを演じたフランス領ギアナですが、当然というべきなのか出場資格を持たないマルダの出場はルール違反となってしまい、ホンジュラス戦は0-3で敗戦扱いとなり、マルダも結果的にフランス領ギアナ代表としてこの後の試合に出られなくなってしまいました。
フランス領ギアナが誇るレジェンド選手であることは違いないので
出場したこと自体にファンは喜んだと思いますが、それで引き分けだった試合が負けになり、結果だけ見れば3戦全敗になってしまったことは
良かったのやら悪かったのやら・・・
3つの代表ユニフォームに袖を通した選手
最後に紹介するのは、元フィリピン代表MFのデミトリウス・オムフロイという選手です。
彼の異色な代表キャリアとは、3つの異なる国でそれぞれ年代別代表、年代別代表、A代表を経験していることです。
パナマ人男性とドイツ人女性の間に産まれた父親とフィリピン人夫婦の間に産まれた母親の間に、両親と同様アメリカで産まれたオムフロイ。
U-17までアメリカの年代別代表でプレーしていましたが、カリフォルニア大学バークレー校でサッカーをしていた2010年にはパナマのU-21代表に招集され中央アメリカ・カリブ海競技大会に出場。
その後、2011年のスーパードラフトで指名されたトロントFCを1年で退団しますが、フィリピンのグローバルFCに入団した2012年にはフィリピンのA代表としてデビューし、同年のAFFスズキカップ(東南アジアサッカー選手権)にも出場しました。
自分のルーツである3つの国の代表を経験するという、特殊なキャリアを持つオムフロイですが選手としてのキャリアは短く
2012年に23歳で現役を引退しています。
彼は難病である多発性硬化症を患っており、それは2010年にMRIを受けた時に発覚しました。
2005年に契約したポルトガルのスポルティング・リスボンのユースチームに所属していたときも症状である視覚障害や足の痺れ、首の痛みに悩まされトップチームへの昇格が叶わなかったということがあったそうです。
引退後は
写真家(オムフロイの父親も写真家)や映像作家、歌手、画家などマルチな分野で活動しているようです。
ちなみに、現役時代の2012年にもジャスティン・ビーバーの曲『ボーイ・フレンド』のMVに出演していたとか
※1分43秒に映っているのがオムフロイ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?