わかれ

私とは、ベッドに籠って泣いて居る幼き少年のことではない。

今日は、実に別れの日であった。
それは唐突に告げられた。私は大人だから、それを受け入れた。

ギン太は捨てられるのだ。捨てられる子なのだ。周りを見れば私だけでなく、子供たちでさえも、それも五歳児を含み、皆、同じ顔をして、まるで私と同じように受け入れていた。烏滸がましくもあり、立派なことにもし彼らが私と同等であるならば、その感情は全員共通して、理解に近いものでもあった。我々は賢いのである。

ギン太をゴミ箱から取り出し抱いて、皆のところへ連れて行ったら、彼らも当然悲しくあっただろうが、笑顔で輪に迎え入れて、その光景を目の当たりにしたから私はもう何も手につかなくなって、小説を書き始めてもそのことばかりが気になって、仕方がない。

私が集中できていないことはこの現段階においてギン太にとって失礼なことのように思えて、現実逃避にもならない、原稿用紙を少しだけ暗くするだけの作業を諦めずに試みたが、やはり駄目で、会話に耳を傾けてみると、どうやら子供たちは皆でお別れ会を催していた。

それは大層に細やかで、ただの集会のようにさえ見えたが、その中にあった例の五歳児の言葉に、私は震えるのであった。
「生まれかわったら、またあおうね」

明るく振る舞い、希望に満ちた言葉を吐いたのだ。筆を折れない私こそ卑怯だと思った。
ギン太はこの後、悪臭に塗れ、ぎゅうぎゅうのまま押しつぶされて、燃やされて灰になる。

私はようやく決心してシャーペンを置き、ギターに持ち替え、ギン太の為に皆に歌を披露した。一曲目は別れの歌。二曲目と三曲目は明るいポップソングを選んだ。みんな、おしゃべりをやめて黙って聴いて居てくれた。

悲しくなんかない、いつかまた会えるもの

ポップソングとは、常にこうである。こんな歌詞に嫌気を指す時もあるが、何人かに一人かそれ以上の者は、きっといつか救われている。
闇に潜む美徳も悪くないが、こちらの方がもっとすごいと素直に思えた。だから、明るみこそ、真の優しさだと信じよう。
さようなら。大きく手を振ってみせよう。
私はギン太をビニールに包んで、確実に泣いてはならないはずなのに泣いて、お別れをした。

翌日、ギターが壊れていた。こんなことも、本当にあるものだ。


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