世代論
加藤典洋氏は、団塊の世代には全能感があると言っていた。この世代を受け容れるために、たくさんの学校が作られた。自分達には社会の古い枠組を壊し、新しいそれを創る力があると思い込んで育ってきた。そうした「全能感」と、人口圧ゆえのフラストレーションの合力として、かの大学紛争はもたらされた。全世界に「団塊」の仲間であるベビーブーマーがいた結果、60年代の末に世界的な若者の反乱がもたらされたと加藤氏は言う。
「団塊」たちの「全能感」。なるほどと思う。全能感がなければ、「革命」ができるなどとは思いつきもしないだろう。美女たちとアバンチュールを重ねたあげくに、世界的家電メーカーの会長に昇りつめた「島耕作」は、「団塊」の代表選手だ。その言動から「全能感」が漏れ出ているこの世代の有名人は枚挙に暇がない。数が多い上に自信過剰で押しの強い人物が多いから、この世代が上下の世代から疎まれたのも、故なきことではない。
1950年代中葉に生まれた私の世代の人口は、「団塊」の半分ぐらいである。日本のベビーブームは一過性のものだった。数は力。私たちの世代が「団塊」のような全能感をもつことは難しい。「団塊」が好き勝手やった後を歩く人生である。「しらけ世代」とも「3無主義」と呼ばれたのもむべなるかなである。人口規模は同じぐらいでも、青春時代にバブルを謳歌した一つ下の世代である「新人類」たちには、「全能感」を感じるが。
いまの若者たちが「全能感」をもつことは不可能に近い。人口が「団塊」の3分の1程度。経済が停滞する時代に育ち、将来については明るい見通しは何もない。「団塊」たちの真逆である。「社会を変えられる」などとは考えることさえできない。何年か前大阪の高校生たちの「バブリーダンス」が話題になった。80年代風のイケイケファッションに身を固めて踊る彼女たちからは、「全能感」をもちえた先行世代への憧憬が垣間見えた。