スベっる心理学63〜“坂本テクニカル・心理学メソッド”、不死鳥の如く〜(長編小説)
「坂本さん、もっと思いやりのある心をもったほうがいいと思います」
詩織は、元気をにらむように見てそう言った。
元気は詩織のほうには顔を向けずに、正面を向いたまま黙っている。
(――よし、これでいいんだって。今おこなっているのは『ゲインロス効果』というテクニック。これは、一言でいうと“ギャップ”なんだって。人はプラスの感情とマイナスの感情の変化量が大きいほど、より強く影響を受ける。ただ単に良い人になるよりも、始めにマイナスの印象を与えておいて、後から良い人になったほうが、相手により良い好印象をもってもらうことが出来るんだって。例えば、学校のテストって、最初のほうは基本的な易しい問題なんかが比較的多くて、進むにつれて応用が試される難しい問題になっていく傾向にあると思う。だから、先生を喜ばせたかったらオレならこうするって。一番最後のもっとも難しいであろう問題だけを正解する。後は全部、分かっていてもわざと間違えるんだって。するとどうだろう、先生はオレの答案用紙を採点しながらこう思う。「間違えてばかりで、坂本にはオレの教えたことが伝わっていなかったんだな。オレの教え方が悪かったのかな……」と、自分自身の教師としての資質にも、何も分かっちゃいないオレに対してもマイナスの感情をもつんだって。しかしどうだろう。諦めかけて採点を終えようとしたその時、一番最後の最も難しいであろう問題を、完璧な解答を書き込んで正解しているんだって。きっとその先生は、この日最高の感動を味わうに違いない。何しろ、マイナス百点だった気持ちが一瞬でプラスの百点にひっくり返るんだから。実質的には二百点だって。先生は五点の答案用紙に、こう書かずにはいられないだろう。“日本一の五点をありがとう”と。今からオレは詩織さんにとって、“木馬に乗ったおじ様”から“白馬に乗った王子様”になるんだって)
元気は黙ったまま、窓の外に広がる一面の海を眺めながらその時を待った。
それから数分後、先ほど元気がクレームを言った女性スタッフではなく、気の強そうな雰囲気の別の女性スタッフが、注文した二人のメニューをトレンチに載せて持って来た。
「先ほどは申し訳ございませんでした。『海鮮中華丼』をご注文されたお客様」
気の強そうな女性スタッフは、言葉遣いこそ丁寧ではあるが、無表情でなんだか凄みがある。
「あっ、はい、ボクです」
元気は胸の辺りで手を上げて、まるで借りてきた猫のように、おとなしい口調で言った。
新たにやって来た女性スタッフが醸し出す、“ザ・ヒール”といった迫力のあるオーラを前に、元気はテクニックの存在自体を忘れてしまっていた。
女性スタッフは二人が注文したメニューを届けると、再度、謝罪をしてから厨房に戻った。
その間、元気はモジモジとして最低限の受け答えをするだけで、「我流・ゲインロス効果」を継続して使用することはなかった。
(――やばい、やっちまったって。これじゃあ、ただの悪質クレーマーだって……)
「いただきましょう」
詩織は元気のほうには顔を向けずに、正面を向いたまま、先ほどまでのトーンの口調ではあるが、どこか他人行儀な様子である。
「そうですね、いただきますか」
元気は、気まずそうにしてそう答えた。
二人は注文した料理を食べ始めたが、“おいしそう、一口ください”といったような夢のようなやりとりなどあるはずもなく、無言のまま食べ進めていく。
まるで、離婚まで秒読みの、夫婦の食卓のような光景である。
(……)
元気は焦りのあまり、逆転への考えを巡らせることが出来ずにいる。
食べている海鮮中華丼の減っていく様子が、砂時計の砂が下に移動していくように、詩織との別れのタイムリミットを示唆しているようにも見える。
結局、二人とも言葉を発することがないまま食べ終えてしまった。
しばしの沈黙が続く。
「……そろそろ行きましょうか?」
重たい雰囲気の中、詩織が口を開いた。
「――そうですね。行きますか」
元気は落ち込みを隠すことが出来ずに、沈んだ声で答えた。
二人は、席を立って会計カウンターに行くと、元気がクレームを言った女性スタッフが出て来て対応をした。
女性スタッフは、「不愉快な思いをさせてしまい申し訳ございませんでした」と、最後に頭を下げて謝罪をした。
それに対して詩織は、即座に「謝らなければいけないのはこちらのほうです。本当に申し訳ありません」と、頭を下げて謝罪をした。
(どうすればいいんだって。こういう時は、どのテクニックを使えばいいんだ……)
元気はテクニックに固執するあまり、自分自身の心を忘れてしまっている。
彼は、結局ひとことも発することのないまま、終始きびしい顔をしていた。
会計を終えると、二人は一階に降りるエスカレーターの近くまで移動した。
「次はペンギンでも見に行きますか」
元気は気を取り直すかのような、明るい口調である。
「……ごめんなさい。今日は、もう終わりにしませんか?」
詩織は、切り出しにくそうに言った。
「終わりとは……あ、ペンギンがあまり好きではないんですね。すみません、気が付かずに。それでしたら、セイウチでも見に行きますか?」
「いえ、そういうことではありません。さっきの店員さんに対しての態度、見ていてとても不愉快でした。もっと、人への気遣い、思いやりの心をもったほうがいいと思います。すみません、今日は帰ります」
詩織は、言いにくそうな表情をしながらも、きっぱりと言った。
「……」
元気は、詩織の言っていることがすぐには飲み込めずに、黙ったまま微動だにしない。
「……あっ、そういうことですか。分かりました。今日は解散ということで……」
元気はようやく状況を理解し、動揺を隠すために明るい口調ではあったが、隠しきることはできなかった。
「ありがとうございました。今日は楽しかったです。失礼します」
詩織は申し訳なさそうにしてそう言うと、頭を下げた。
そして、一人でその場を立ち去った。
残された元気は、一人その場に立ち尽くして、エスカレーターに乗って降りて行く詩織の後ろ姿を、ただただぼんやりと見つめていた。