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スベっる心理学32〜システムの穴の穴編〜(長編小説)
受付に行くと、手漕ぎボートとスワンボートの二種類から選べるとの説明を受けた。
元気は、即答で手漕ぎボートを選択した。
詩織は何も言わずに黙って従う形となり、係員の案内で、元気とボートの乗り場まで歩き出した。
「坂本さんのことだから、てっきりスワンボートを選ぶのかと思いました」
詩織は笑顔で言った。
「桜井さんにペダルを漕がせる訳にはいきません。坂本元気の元気は、オールを元気よく漕ぐという意味もあるんです」
「腕の見せ所なんですね。楽しみです」
(よし、上手くごまかせたって。「坂本テクニカル・心理学メソッド」は、今から今から)
元気が事前に綿密に立てた計画では、二番目のメソッドは手漕ぎボートの上でと決まっていた。
元気は、上手く誘導出来たことに安心した。
ボートの前まで来ると、まずは元気が先に乗り込むのかと思いきや、前には進まずに後ずさりした。
(けっこう隙間があるって。落ちたらどうするんだよ)
元気は、そのまま詩織の背面まで移動した。
「どうかしたんですか?」
詩織は、後ろを振り返ってきいた。
「いえ、桜井さんが後ろから押されたら大変ですので、先に乗って下さい」
「大丈夫だと思いますけど、分かりました」
詩織はそう言うと、一歩前に出てから、その場からまたいでボートに乗った。
元気は詩織が乗ったことを確認すると、またげばボートに乗り込める位置までおっかなびっくり、すり足で移動する。
だが、ボートまでのあと一歩を、自らの意思ではまたげそうにないことを悟った。
すると元気は、詩織に出来るだけ違和感を与えないように自然体を意識して、彼女に向かって右手を差し出した。
元気の演技に加えてキャラクターも相まってか、詩織は特段変わった様子ではないといったように、両手でその手をキャッチした。
「せ~の!」
「優しくお願いしますね!」
詩織からの掛け声があると、元気は不安をかき消すかのように、さらに声を張り上げてそう言った。
元気が怯えた目で、乗り場とボートの間の揺れ動く水面を見たのと同時に、詩織は彼をこちら側に引き寄せた。
「大丈夫ですか?」
「ありがとうございます。池に落ちた瞬間に今日の予定が終了するところでした――気を取り直して出発しましょう」
元気は、何事もなかったような涼しい顔で、オールをつかむと漕ぎ始めた。
「ここの公園には、よく来るんですか?」
「来ますよ。今までに数えきれないぐらい来てます。実家からも近いですので、子供の頃は両親と弟と、休みの日にはよく遊びに来てました」
「弟さんがいるんですね」
「はい、二人兄弟の長男です。子供の頃は弟とは時々、殴り合いの喧嘩なんかしたりしたんですけど、負けてばかりでした。最後は決まって、一緒にお菓子を食べて仲直りしていました」