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スベっる心理学34〜システムの穴の穴編〜(長編小説)
詩織は、オールから元気の手を外そうと頑張り続けている。
しかし、元気とオールは完全に一体となっているかのように、どうすることも出来ずにいた。
「坂本さん、大丈夫ですか? 坂本さん……何?」
詩織は、元気が着ているジャージの袖をヒジまでまくっており、左の前腕の外側部分に、何か書かれていることに気がついたようである。
詩織は、前かがみの姿勢で何が書かれているのかを確認した。
「坂本さん、字が小さい……えっと、『アナタ、このドキドキ、恋あるよ。キスで目覚める、ボートの王子様』――ちょっと、ふざけないで下さい。坂本さん、悪ふざけはやめてください。危ないですよ」
詩織は、声の感じこそ穏やかではあるが、表情は少しムッとしている。
元気は、詩織の呼び掛けに答えることはなく、目をつぶったまま微動だにしない。
(羊が十九匹、羊が二十匹、羊が二十一匹、羊が二十二匹、ヒツジが、あれ、何かおかしいって)
元気は、詩織が前腕に書いた文に気が付いたことを認識していない。
彼は気を紛らわすために早く眠れるおまじないを心の中で唱えていたが、頭の中を過ぎ去ってゆく羊たちが、皆サングラスを掛けていることに気が付いた。
元気はそのことに気をとられていて、手でしっかりと握っていたオールを両方とも放してしまった。
だが、元気は羊に夢中でオールのことなどすっかり忘れてしまっている。
詩織は、元気の手からオールが放れるのを確認すると、すかさずにそれを手に取った。
そして、スタート地点に向かってオールを漕ぎ始めた。
ボートはどんどん目的地に向かって進んで行くが、元気は気がついていない。
(羊が二十九匹、羊が三十匹、羊が三十一匹、羊が三十二匹、羊が……)
どうやら仕切りなおしてからの羊は、誰もが想像するような羊であるようだ。
元気は、再び変な羊が紛れ込まないように意識を集中していて、いま自分が詩織と居るということも、ボートに乗って居ることすらも忘れてしまっている。
(羊が六十一匹、羊が六十二匹、羊が六十三匹、ヒツジがぁ――オレはいったい何をしているんだ。何か忘れてるって。この音はボートを漕ぐ――ホワァイ?)
元気は目をカッと見開くと、慌てて上体を起こした。
「ホワァイ? ゴーボート? ゴーボート?」
「イエス、アイアム・ボートレーサー」
元気は、詩織の悪ノリしたような発言に、もしかするとこれは夢なのかもしれないと頭をよぎり、水の中に手を入れて見た。
「オゥ! リィアルゥ!」
そこは元気の知る世界であった。
詩織は黙々とオールを漕いで、スタート地点に戻っていく。
「桜井さん、代わりますよ」
「結構です」