スベっる心理学60〜“坂本テクニカル・心理学メソッド”、不死鳥の如く編〜(長編小説)
「――桜井さん、一つお願いがあります」
元気は、先ほどとは違うマンボウを見ている詩織の横顔を見て言った。
「どういったお願いですか?」
詩織はマンボウから元気に視線を移すと、先ほどの一件があってか、警戒をしているような表情と口調で尋ねた。
「今からボクが『第八話』って大きめの声で言いますので、そうしたら桜井さんは、ボクと同じぐらいの大きさの声で、『マンボウ一家、一人息子に千匹の母親が名乗り出た。この一人息子の魅力とは?』と、続いて言ってくれませんか?」
もちろん、これは「坂本テクニカル・心理学メソッド」の一環であってのお願いである。
(――よし、上手く誘導出来たって。これは『認知的不協和理論』っていうテクニック。こちらから相手に何かお願い事をして、相手はその要求に応える。人は普通、好意をもっている人には優しく親切に接して、苦手な人にはそうはしないって。相手は、こちらの要求を聞き入れて親切に優しく対応をすると、お願い事をしてきた人に好意をもっているから聞き入れたんだと錯覚しやすいんだって。例えば、どんな願いでも一つだけかなえてくれる、“自称神様”がいたとする。その神様に願い事をかなえてもらえる権利が、抽選で当たったとする。そして選ばれた人物は、「一生ものの箸が欲しいです」とお願いをした。その願いごとを、自称神様は承諾した。それからだって。自称神様が、今から二つの行動をとった時のことを想像してみるんだって。まず最初は、後日、自称神様が自宅まで紙袋に入れられた一膳の箸を届けてくれたんだって。そして神様が帰った後に、さっそく紙袋を開けて中身を確認してみた。するとどうだって。確かに一生使おうと思えば使えるんだろうけど、思っていたのとは違う。よく見ると箸に値札のシールが貼ってあって、千ハ百円と印字されている。こっちはもう少し高級感のある品を期待していたから、正直、がっかりするって。自称神様に対しても……。しかしどうだって、同じように自称神様が、自宅に一膳の箸を届けてくれる。そして神様が次のように言ったとする。「この箸は千ハ百円しました。だが私は、そこまで裕福とは言えません。そこでだ、私が千円出してあげるから、残りのハ百円は君が負担しなさい。どうかね?」てな具合に。するとどうだって。ふざけるなと思いつつも、なんだかこの神様に、ちょっとだけ好感を抱いてしまわないか。これは自称神様が頼み事をしてきて、こちらがそれに応えて親切な対応をする。好きな人だから優しくしたんだと錯覚しているんだって。これが『認知的不協和理論』。オレの無茶振りを詩織さんが行うことによって、詩織さんはオレのことが好きだと錯覚する――)
元気は一点の曇りもない青年の目を演じて、詩織を見ていた。
「……逆だったらいいですよ。私が『第ハ話』って言いますので、坂本さんが、『マンボウ一家がどうのこうの』と」
「……いえ、やめましょう。周りに人がたくさんいますし。いやぁ、マンボウって思ったより大きいんですね」
元気は詩織からマンボウに視線を移すと、あたふたとしながらごまかした。
(危ない危ない。オレが「坂本テクニカル・心理学メソッド」にひっかかってどうするんだって)
二人は、長く続く水槽に顔を向けながら歩き出した。
「――あ、すごい。坂本さん、見て見て」
詩織は立ち止まると、この日一番の、というよりも、元気の前では、今までに見せたことのないようなはしゃぎっぷりである。
「どっ、どこですか――あっ、大きな“ウミガメ”ですね! この亀はきっと、浦島太郎が助けた亀ですよ!」
元気はここぞとばかりに、大げさに驚いて見せた。
「違います、ウミガメのほうじゃなくて、こちらのほうですよ。――この“サバの群れ”、すごく綺麗です。私、“サバ”が大好きなんですよ」
「……」
元気はアイスホッケーの試合中に、味方選手の一人の動きが悪く、途中でその選手が、高齢のチームオーナーであることに気が付いた時のように、強い戸惑いの感情から言葉が出てこないでいた。
「こんなに密集してて、よくぶつからないなって感心します。満員電車だと、そばにいる人に触れちゃうのに」
詩織は、継続して嬉しそうである。
「……“サバ”が好きなんですか?」
元気は、“結婚してたんですか?”というようなトーンで言った。
「大好きです。お寿司を食べに行ったら、サバで始まりサバで締める。というぐらいハマっているんです」
「……」
詩織のサバ愛に対する、元気の心の内はというと……。
(詩織さんってサバが好きだったのか。お祭りで売っているような、綿アメみたいなのが好きだと思ってたんだけど……なんだか“高嶺の花”ってわけでもないような気がしてきたって。親近感が湧いてきたって。詩織さんは“サバ”が大好きで、オレは“サンマ”が大好物――白身魚男子と女子だって)
大好評、“白身魚女子”であった。
サバの群れは高速で通り過ぎて行った。
「行きましょうか」
元気は、“大丈夫、ボクがサバの代役を努めてみせます”と言うような、力強さの中に優しさが込もったような言い方であった。
詩織が「はい」と答えると、二人は先へと進んだ。