スベっる心理学59〜“坂本テクニカル・心理学メソッド”、不死鳥の如く〜(長編小説)
「おはようございます。坂本さんと会う時は、いつも天気がいいですね……坂本さん、トレードマークの黄色いジャージ姿は、とても素敵だと思います。でも、頭に巻いているのって?」
詩織は握手に応じると、必死で笑いを堪えるような素振りでそう尋ねた。
どうやら、元気が頭に巻いている物が気になって、遅刻のことなど忘れてしまっている様子である。
(詩織さんの興味津々な顔――『希少性の法則』は成功だって。そして続けざまの『メラビアンの法則』。人はなんだかんだ言っても外見は大事。オレにはこのイエロージャージが一番しっくりくるんだって。そして極め付きは……)
元気は自分の額を指差して、「これのことですか?」と得意げに確認した。
「そうです。受験生とも少し違うみたいだし」
「桜井さん、これはハチマキですよ」
「それは分かります。だけど、この“ビタミンC”って自分で書いたんですか?」
「自分で書きましたよ」
元気がきっぱりとそう即答すると、詩織はおかしかったのか、思わず吹き出してしまった。
「そうして“ビタミンC”なんですか?」
「きのう確認した天気予報で、今日は少し風が強いとなっていましたから、カゼに負けないためのビタミンCです」
「上手いです、星二つ。建物の中は大丈夫だと思いますけど――まだ開園前なのに、けっこう混雑していますね。行きましょうか」
詩織は、元気と会うのは三度目ということもあるのか、公衆の面前で上下黄色のジャージに、ビタミンCと手書きされたハチマキを頭に巻いた男と、これから一緒に行動を共にすることに、恥ずかしいといった素振りは見受けられないように思われた。
元気は、詩織から星二つのお言葉をもらえてご満悦であった。
二人は、チケット売り場の列に並んでチケットを購入すると、本館の中に入り進んで行った。
「坂本テクニカル・心理学メソッド劇場」の幕開けである。
二人が中を進んで行くと、周囲は薄暗くなり、巨大な水槽の中はライトアップされており、魚たちは、マイペースに自分たちの泳ぎをしているようであった。
「……暗いって、暗いって、桜井さん。怖いって、怖いって。桜井さん、どこですか? あぁ、オレがいないって」
元気は薄暗い空間の中に入るや否や、両手を頭の上にのせて体を意識的に震わせながら、怯えたような口調と表情であった。
「ちょっと坂本さん、大丈夫ですか? 落ち着いて下さい。私ならここにいますよ。坂本さん、落ち着いて自分の体を見てみてください。そんなに暗くないです、大丈夫ですよ」
詩織は元気の発作にもとれるような行動に、動揺した表情を見せつつも、優しい口調で落ち着かせようとしているみたいであった。
「ムリだって、ムリだって」
元気は、意識的にパニックを装ったまま水槽の前に移動して立ち止まると、頭の上に置いた手を下ろして、強化ガラスに触れずに近づけた。
「――ありがとう。オレならもう大丈夫です。キミのおかげです。もう怖くないです」
元気は、水槽の中を泳いでいる一匹のマンボウに向かって、涙ぐみながら、優しく語りかけるようにして言った。
詩織は、少し離れた所から戸惑っているような表情で、黙って元気を見ている。
(――よし、いい感じに決まったって。これは『両面提示』というテクニック。人は、うまい話には裏があるのではないかと警戒するもの。いいことばかりを言っても不信感を抱かれる可能性が高い。『両面提示』とは、そのモノの良いところだけではなく、悪いところも正直に伝える。そうすることで、相手のこちらに対する不信感は払拭されて信頼へとつながる。このテクニックを使用する際のポイントは、先にデメリットを伝えて、後からメリットを伝えることなんだって。例えばセールスマンが、十ニ年前に製造されたパソコンを販売しなければならない羽目になったとする。この場面で『両面提示』を発動するとしたら、はじめに、「こちらのパソコンは十年以上前のモデルですので、最新の物と比較すると、一つ一つの動作に時間がかかるし、たぶんイライラすることだと思います」と、まずはデメリットを伝える。そしてその後に、「しかし、出来の悪い子ほどカワイイというではありませんか。ここはご愛嬌ってことで、どうです? おひとつ」てな具合にメリットを伝える。いまオレは、詩織さんに自分の悪い面と良い面の両方をアピールしたんだって。最初に、怖がりで臆病者の情けない男だというマイナスの部分を見せた。そしてその後に、自分の弱さを素直に認めて、目の前に映る全ての生き物に感謝して涙する、心の綺麗なヤツだというプラスの一面を見せたんだって)
元気は体を反転させると、詩織の前まで移動して立ち止まった。
「いきなり取り乱したりして、すみませんでした」
「大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です。心配してくれて、ありがとうございます。行きますか」
「はい」
詩織は動揺した素振りを見せつつも、元気のことを気遣うと二人は歩き出した。