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スベっる心理学64〜“坂本テクニカル・心理学メソッド”、不死鳥の如く編〜(長編小説)


詩織の姿が見えなくなると、元気は辺りを見回して、自動販売機の横に設置してある三人掛けのソファーを見つけた。

元気は、誰も座っていないソファーの右端に浅く前のめりに腰掛けると、両手を組んで下を向いてしまった。

そして目を瞑ると、一度、大きくため息をついた。

しばらくすると立ち上がり、不安定な足どりで外に出ると、タクシー乗り場に向かった。

元気は車に乗り込むと、運転手に行き先を告げた。

もちろん行き先は、自宅ではなく友の家である。

到着すると元気はドアの前に立ち、もう一度目を瞑ると大きなため息をついた。

そして、目を瞑ったままインターホンを押そうとしたが――。

「あらっ」

お約束通り押し損ねた。

気を取り直して、今度は確実にボタンを押すと、それとほぼ同時に、洋平からの「はい!」という応答があった。

たまたま応答機の近くに居たのだろうが、独身男性の休日にしては、なんとも寂しい反応である。

洋平は扉を開けて「早かったですね」と笑顔で言ったが、元気の表情を見て状況をなんとなく把握したのか、笑顔が消えた。

二人は部屋の中に移動すると、ダイニングテーブルの二脚ある椅子のうちの出入口に近いほうの、いつもの定位置に腰掛けた。

元気はいつも洋平の家に来ると、トイレから近いという理由で出入口側にある椅子に座るのだが、結果的に下座のほうの椅子を選んでおり、この部屋に住む主を立てているのであった。

洋平はこの部屋の主らしく、上座のほうの椅子に腰を下ろした。

洋平は、沈んだ顔をした元気を直視することが出来ないのか、今にも涙を流しそうな目で、先輩がおでこに巻いている、ハチマキに手書きされている“ビタミンC”の文字を見ている。

しばしの沈黙が続く……。

「……ヨシザワ、オレ、」

「ダメぇだぁったぁんでぇすぅねぇ! どぉしてぇ! サァカァモォトォさぁん!」

洋平は元気が話し終える前に耐えられなくなったのか、元気の声に被せるように、嗚咽しながらそう言って顔を伏せてしまった。

「……吉沢、顔を上げてくれって。まだ何も言ってないのに、人のことを敗者みたいに言わないでくれって」

「え――暗い顔していて、さっきから一言も喋らないから、てっきり今日の桜井さんとのデートは、上手くいかなかったんじゃないのかと思いました。ということは、上手くいったんですか?」

洋平は顔を上げて、いつも通りの口調に戻りつつ、泣き止んでいるようにも見えるが、目からは涙が滴り落ちて鼻水をたらしたままである。

「もちろん大成功……と言いたいところだが、なぁんでぇあぁなぁっちゃったぁんだぁよぉ! しぃおりぃさぁんにきぃらわぁれちゅあぁったぁってぇ! もぉだぁめだぁ!」

今度は、元気が嗚咽しながらそう言ってうつむいてしまった。

「さぁかぁもぉとさぁん!」

もはや、収拾がつかない事態へと化してしまった。

それから十分近くの間、男二人の泣き声、鼻をすする音が部屋の中をこだましていた。

「……ヨシザワ、ヨシザワ」

一足先に涙が枯れて我に返った元気は、まだ下を向いている洋平に向かって、こそこそ話をするかのようなボリュームで言った。

「……あれ、坂本さん?」

洋平が顔を上げると、向かいに座っていたはずの元気の姿が見当たらない。

「ヨシザワ、バック。ピー、ピー、ピー」

「え、バック? うしろ……うぁ! ちょっとどうしたんですかぁ」

洋平は椅子に座ったまま、上半身をひねって後ろを確認するが元気の姿はなく、何気なく視線を下に落とすと、そこに先輩の顔があった。

洋平は驚いたのか、思わず声をあげた。

元気は、洋平が座っている椅子の真後ろに仰向けで寝そべっている。

履いていた黒色の靴下を脱ぎ、それを両耳に被せている。

「ヨシザワ、“くつ下”が“耳下”になっちゃったって」

元気は、継続して小声である。

「――“耳下”履いて“くつ下”履かず、もぉ、おっちょこちょいなんですから」

洋平は、泣いていたことなどすっかり忘れてしまったかのように、笑いながら嬉しそうに言った。

「元気出せって、こんな変なヤツだっているんだしよ」

「坂本さん、ありがとうございます。――て、何か違いませんか」

「違うよな。ごめんって」

元気は、立ち上がりくつ下を正しい位置に身に着けると、もと居た椅子に腰掛けた。

二人はテーブルを挟んで向かい合うと、元気は詩織との水族館での出来事を詳細に語り始めた。

「……そんなことがあったんですね……」

事のいきさつを聞いた洋平は、ひとこと寂しそうな表情でそう言った後、腕を組んで黙り込んでしまった。

再び、しばしの沈黙タイムに入った。

「……吉沢、“イカ刺し”はあるか?」

元気は、沈黙を破るようにして尋ねた。

「はい、ありますよ。用意しますか?」

「頼むって。出来るだけ前に食べた時と同じようにしてくれないか。捌き方とかお皿とか」

「前回うちで食べた時と同じようにですか?」

「そうだって」

「その心は?」

「大穴で時間が戻るかもしれない。番狂わせが起こらないにしても、オレの気持ちは前にタイムスリップするような気がする。今日の出来事が無かったことになるかもしれないって」

「そういうことですか。やってみます」

洋平は、“このままでは負けてしまいます。まだ一度も成功したことのない四回転アクセルですが、やってみます!”と言わぬばかりの、鬼気迫る素振りでそう言うと、立ち上がって台所に向かった。

包丁でイカを捌く洋平の姿は、技術はさておき、気迫は日本代表にも値するのではないのか。

十数分後、洋平は前回食べた時と同じ皿に捌いたイカを載せて、ダイニングテーブルの上に置いた。

洋平が椅子に座ると二人は記憶を遡って、出来うる限りの再現をした振る舞いで食べ終えた。

「……どうですか?」

洋平は、固唾を呑むかのようにしてきいた。

「……すまん。ここまでさせておいて申し訳ないけど、やっぱりダメみたいだって。戻るはずなんてないって」

元気は申し訳ない気持ちになり、謝るようにして言った。

「そうですよね。こんなことで忘れるなんて無理がありますよ。桜井さんのこと、本気で想っているんですから」

洋平は、励ますかのような言い方であった。

「心配してくれてありがとな。今日は帰るわ」

元気は出来るだけ洋平を心配させたくないと、無理やり笑顔を作って明るく言った。

そんな先輩の心中を察してか、洋平はまた泣き出してしまった。

元気は帰り道、不甲斐ない自分が悔しくて、人目もはばからずに、小さな子供のように泣きじゃくった。


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