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撮影記6 秋麗 「岐阜県関市 板取川〜川浦渓谷」もののあはれを知るについて

季節の移ろい


今回は、岐阜県関市板取の板取川〜川浦(かおれ)渓谷に訪れ動画の撮影をしてまいりました。

川浦渓谷

 今年の梅雨前に訪れた時には新緑であった木々の葉も、色を変え、落葉となって風に舞い散り、なにか、儚さ、物事の無常を感じさせつつも、色彩はまるで「花」が咲いているような、とても鮮やかで美しい景観となっておりました。

移ろいゆく色彩

 季節の移ろいは、よく人生に例えられるものであります。人も青々とした若葉の青春から、生命の昂揚が満ちる朱夏へ、そして白秋を経て、老年期となる玄冬へと移り変わっていきます。
 個人的には私も、暑かった夏が終わったあたりの季節でしょうか。
 このような情緒や哀愁を表す言葉に「もののあはれ」や、「侘び寂び」がございます。
 あはれ、とは、嗚呼、と感動するという意味だと聞き及んだことがございます。
 また、江戸時代の国学者である本居宣長の「もののあはれを知る」という有名な言葉もありますが、本居宣長の研究をされていた小林秀雄氏によれば、これは「人の心を知ること」という意味である、とのことでございました。

川浦渓谷

「もののあはれ」の歴史

 「もののあはれ」といった感性が重視され、「侘び寂び」の基盤が形成されたのは平安時代(794-1185年)で、日本の美意識の基盤となり、詩や物語を通じて自然や人の感情が描かれました。
 鎌倉時代(1185-1333年)になりますと、 武士階級が台頭し、簡素さや質素な生活が理想とされる中で、侘びの精神が強調されるようになりました。この時期、禅の影響が深まり、禅宗の「無」と「空」の思想が侘び寂びに重要な要素をもたらしたとのことであります。
 そして室町時代(1336-1573年)になりますと、 茶道が大きく発展し、特に千利休が「侘び寂び」の思想を茶道に取り入れたことで、茶の湯は精神的な修行としての側面を持つようになりました。
 利休は、質素でありながら深い味わいを持つ茶の作法を確立し、この「侘びの美」を高められたのです。

 しかし、本居宣長の国学とは、茶道や、また能楽など、(世阿弥の花伝書などにも素晴らしい名言がありますが、長くなりますので次の機会に)禅宗の影響を受けている「侘び寂び」とは少し違い、古事記、日本書紀、また、平安時代の古今和歌集、源氏物語など、禅宗以前の日本古典を大切にされたものであったとされます。「もののあはれ」の頂点を「源氏物語」とし、その本質を、「もののあはれを知る」という一語に集約されました。

美しい板取川

「もののあはれ」 「侘び寂び」は、日本の美学や文化において非常に重要な概念でありますが、その精神の、もとになっておりますのは、やはり自然への畏敬の念を大切に暮らしていた石器時代、縄文時代にはじまる日本古来の人々の心に根付いていたものであったのです。

人の心を知る

 人の心は計り知れません。しかし、自身が経験したことは、他の人への想像力を働かせることが出来ます。それだけの経験や、それにともなう感動を積み重ねるには、やはり、年月が必要となるのでしょう。また、人々は、そんな「もののあはれを知る」ために、古事記、日本書紀の時代から、様々な物語の中に多くを学び、困難や苦しみを乗り越える指針にしてきたのだと思います。

 「侘び」とは、質素で簡素なものの中にある美しさや静けさを指します。華やかさや豪華さよりも、内面的な深さや静謐さを重要視するという意味であり、「寂び」は、時間の経過や自然の摂理によって生まれる風化や変化に美を見出す感性です。古びたものや朽ち果てたものに対する愛情や敬意が込められています。  

 「人の末期の眼には自然はいっそう美しく映じるものだ」とは川端康成の言葉であります。  
 年齢を重ねるごとに、世界の捉え方や感じ方が変わることは、少し経験をさせて頂いておりますが、やがて玄冬が終わる特、人はどのような境地にだとりつき、どのような美しさを見ることができるのでしょうか。

老害という言葉をこの世からなくしたい

 さて、私は制作の仕事をしておりますが、この撮影は、仕事では機会がなくて出来ない、自分の好きなことを10代の時のようにやりたいなと思い、同居している認知症のはじまった母の具合が良い時に行っております。

 痴呆という呼称を認知症に変えた第一人者、長谷川和夫医師が、認知症のことは認知症になってはじめて解ったとお話されたのを以前記事で読み、とても心に残っています。私の母、叔母が認知症となり、実際、認知症や人が高齢になるということを、日々再発見する、そのような毎日であります。 
 
 近年、老害という言葉を頻繁に耳にするようになりました。
 私が今まで生きてきて一番思うのは「人間経験しないと本当のことはわからない」です。
 年齢を重ねるというのも、自然の摂理ならば、畏敬の念を持つのは、大自然に対してだけではなく、その摂理に対しても同様なのだと思います。
 老害というのは、まだ高齢になっていない方からの言葉だと思いますが、高齢者のことは、ご自身が、その年齢になってはじめてわかることだと思います。
 いかなる時も「老害」という言葉を使える人は本当はいないんだと思います。

つづく
 
 さて、今回のテーマは、若輩者の私には重すぎました。30年はやいです。(笑)
 しかし、私にもその時が来て、2024年の秋、白秋に感じたことを、今の私の解釈ではなく、この同じ文から、まったく違う解釈を読み解くこともあるかもしれません。この「もののあはれ」のつづきは、その時まで、とっておくことにいたします。


お付き合い頂き、どうもありがとうございました。
是非、動画もご覧くださいね。(^^)

では、次回までお元気で。

2024年 秋麗 川浦渓谷にて。


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