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弥助の不在と山田長政の実在

知識人達曰く
「弥助はイエズス会のイタリア人宣教師の従者であったという記録はあるが奴隷ではなかった」
「戦国大名の間で黒人を奴隷にするのが流行した」
「弥助には苗字は無かったが、侍であった可能性が極めて高い」

これらが全て真実なら弥助はイタリア人宣教師の被雇用者であったものを織田信長が奴隷扱いしたが侍であったに違いない、という極めておかしな話になる。

それと、侍であったならチョンマゲを結ったはずだが縮れ毛のモザンビーク人にチョンマゲを結わせるのはかなり無理がある。
はい?コーンロウをチョンマゲ風にアレンジした可能性が極めて高い?

ちなみに「可能性が極めて高い」という言い回しは学者が論文等で「断言出来る」と書くと生じる責任を逃れる為によく使われる。

ともかく、弥助が織田信長と出会った西暦1581年当時の日本にコーンロウの髪型にする技術を持った美容師は世界中探しても居なかったことは断言出来る。

弥助はポルトガル人の奴隷狩りでモザンビークから連れ出され、織田信長により奴隷から解放されたものの本能寺の変以降庇護者を失い日本で人生を終えた人物だが、その数奇な運命により数々の小説やマンガの登場人物のモデルにされた。

弥助は実在したのだろうが、これといった武功も無いのに侍に取り立てられたが苗字は与えなかったなどというデタラメを信長公がしたという記録は無い。

「弥助はサムライとして実在した」という説はアメリカ黒人に「Slaveの子孫ではなくBraveの子孫だったのだ」という希望を与えたかもしれない。

ただ、歴史というものは検証するものであり、確たる証拠も無しに創造するものではない。そして残念なことにアメリカ黒人は自分達のルーツが西アフリカにあることを誇りながらもアフリカ出身者を見下しているところがある。

「それは日本人の祖先が朝鮮半島から来たのに朝鮮人を見下すのに似た話ですね」という話が出てきそうだが、それは一昔前、いや二昔前の発想で第二次大戦終戦直後は「朝鮮半島出身者が無知蒙昧な縄文人に文化をもたらした」という説が広く受け入れられた。

「浦島太郎が行ったという竜宮城も朝鮮半島にあったに違いない」「万葉集は古代韓国語で書かれた」などの今では全く顧みられない学説が昭和時代には横行していた。「奈良はウリナラ(我が国)のナラを漢字表記したものであり、日本は朝鮮民族が作ったのだ」という説もあるが、こうした朝鮮起源ネタを肯定し同意するのが文化人という風潮が暴風のように人文科学学会を席巻していた。

そうした風潮に従うとアユタヤ王朝時代に彼の地で活躍したと伝えられている山田長政は「存在してはならない人物」だった。第二次大戦中、山田長政は大陸雄飛の先駆者として軍部のプロパガンダに利用された人物だったからだ。

そこで「山田長政は実在しない想像上の人物だった、その証拠にタイ側の文献に記録が無い」と主張したのが後にアウンサン・スーチーの学問上の師匠となる矢野暢(やの・とおる)京都大学教授。

名誉教授になれなかったのはセクハラ事件を起こし辞任に追い込まれ、1999年に逃亡先のウイーンで客死したから。
そして、タイ側に記録が無い外国人など別に珍しくはないのである。

矢野暢教授はマスコミ受けが良く、それゆえに影響力もあったが、タイ関係の実績というと目立ったものが「山田長政不在説」程度で、それ以外に何かあるのかというと思いつかない。それにひきかえ、タイ語学習者なら冨田竹次郎大阪外語大名誉教授(2000年10月14日没)のタイ日大辞典のお世話にならなかった者は居ないだろう。

こう書くと「厳し過ぎる」と感じる人も居るだろうが、20年前は確かにタイ語学習者の数も少なかったので、当時の基準に従えば厳しいかもしれない。

そんな有様だから「山田長政はタイ側に資料が無い人物だから実在しない人物だった」という矢野暢教授の主張がこれまでまかり通ってしまっていた。矢野教授は偉い学者だから彼が言うならその通りなのだろう程度の認識だったのだろうが、矢野教授がどこでタイ語の古典を読む読解力を得たのか、その学習歴が実はよく分からないのだ。

冨田名誉教授が矢野教授のことをどう思っていたのか知るすべも無いが、タイ日大辞典ではออกญาเสนาภิมุข(オークヤー・セーナーピムック)こと山田長政を実在した人物として扱い、その生涯がかなり詳しく書かれている。その詳細さは矢野教授の「山田長政不在説」を全く寄せ付けないものだが、世の中広いもので、「タイ日大辞典を持っています」とネットに画像を上げているのに「山田長政不在説」を主張している人がたまにいる。

大人になることの大事さは否定しないが、大人になると権威に従ったり逆らったりに没頭し過ぎて判断力を鈍らせてしまう人が結構いる。「山田長政不在説」は「弥助サムライ説」と妙に相性がいい。

「サムライブルーなんて言っているけど歴史的に日本人の90%は代々百姓だったのだから百姓ブルーが正解」という人達が弥助をサムライとして褒めたたえているのだから整合性が欠落している。それにしても百姓は放送禁止用語なのだがこれが言論の自由というものか。否、これを暴言という。

さて、前述のタイ日大辞典に紹介されているオークヤー・セーナーピムックこと山田長政についての記述は結構長いのだが、紹介してみることにする。

「山田仁左衛門長政(西暦1590~1630年)は尾張または駿河の生まれ。沼津藩の軽卒だった。渡タイ時期は不明だがビルマ軍を撃退した日本人部隊に参加。1621年にはメコン河の関所部隊長としてスペイン艦隊を撃退し武功を建てる。ソンタム王の信頼を受けアユタヤの日本人町の長となり、ソンタム王親衛隊長を務めた」

「また自身も貿易船を持ち1621年にソンタム王が幕府に使節を派遣した時には家来の伊藤久太夫を随行させた。1628年にソンタム王が崩御した後に後継者争いが起きたが、実権を握った国防大臣にとって山田長政と日本人部隊600人の存在が邪魔だった」

「国防大臣は当時10歳のアーティッタヤウォン親王を山田長政の助言に従い国王とし、自らは摂政となったが実は国王になりたかったので山田長政を口実をつけてタイ南部に左遷、その後即位後37日の新王を殺害し自ら王位に就きプラサートトーン王と自称」

「ソンクラーに上陸後パッタニーの軍勢を退けた山田長政はプラサートトーン王の密命により毒殺された」

繰り返すが、矢野暢教授がタイ古典文献を読解出来たのかかなり怪しい。だが「戦後の第一級文化人」としては山田長政の目覚ましい活躍は封印しなければならないものだった。前述の通り軍部のプロパガンダに利用されたというのもあるが、山田長政は日本人だったから。

「日本は単一民族で排外的」という説も結構怪しい。国家のアイデンティティは通貨で民族のアイデンティティは言語だが、明治維新頃は青森県出身者と福岡県出身者はお互い言葉が通じなかった。なので縄文時代の遺跡とされる三内丸山遺跡の「三内丸山はアイヌ語で解釈出来る」という説も流行に乗った一説のような気がする。大体、縄文時代前期にアイヌ民族は存在したのだろうか。

Xにも「アイヌは日本の先住民族」と主張している人達がいるが、ではアイヌ伝承に登場するコロボックルはどこに行ってしまったの?という謎が残る。

マンガ「喧嘩商売」では「軽量級ボクサーはコロボックル」と揶揄するヘビー級ボクサーの石橋というキャラが出てくるが、実際のコロボックルは小人型妖精ではなく穴居人のことだという説がある。だがアイヌが穴居人を殲滅したという説は可能性があっても受け入れられないだろう。

人文科学は学問なのにかなり流行に左右されている。例えば「ネアンデルタール人と人類は混血していた」ことが明らかになった途端にネアンデルタール人の絵姿が「猫背の原人」から「たくましい白人男性」になるようなことが珍しくない。それまでの「人類は皆アフリカからやって来た説」は白人社会から嫌われていたのだろう。

大リーグでの大谷翔平の活躍を「米国では野球人気はバスケットボールやアメフトに次ぐもので日本人は騒ぎ過ぎだ」と過去に野沢直子が発言したことを引用していた人も「日本人の大谷翔平を封印するのがリベラル」と考えたのだろう。ただ、野沢直子の往年のギャグ「ばく、ばく、おーわだばく」は今の若い世代に知られておらず「大谷翔平封印」は失敗した。あれは大和田獏氏公認ギャグだったのに…

「日本人なんて大したこと無いし、日本文化も過大評価されてるんです」とサラッと語るのが文化人なのは今も昔も変わりない。しかし、タイ側文化人の矢野暢教授に対する評価は極めて冷淡なもので、「さては矢野教授はタイでもセクハラ騒動を起こしたのだろうか」と思わせるものだった。

https://www.silpa-mag.com/history/article_14062

下記の画像は上記タイ語記事から借用した山田長政の肖像。描かれたのは1681年で絵師は Struys Jan Janszoonという欧米人。年代的には山田長政の死後に描かれたものだが、もし本当に山田長政が実在しない人物だったらその肖像画を何故欧米人が描いたのか非常に興味深い。

https://www.silpa-mag.com/history/article_6225

また、上記タイ語記事には矢野暢教授のことがこう書かれている。まずタイ語原文を載せるが、翻訳文はその下に続く。
ดร. ยาโน ถือเป็นนักวิชาการญี่ปุ่นที่รู้เรื่องไทยเยอะคนหนึ่ง จากคำบอกเล่าของอาจารย์ไชยวัฒน์ที่กล่าวว่า “ดร. โทรุ ยาโน ท่านนี้เป็นนักวิชาการประจำศูนย์เอเชียตะวันออกเฉียงใต้แห่งมหาวิทยาลัยเกียวโต เคยมาทำวิจัยอยู่ที่จังหวัดยะลาเป็นเวลา 3 ปี และได้ทำวิทยานิพนต์เกี่ยวกับเรื่องบทบาทของทหารไทยในทางการเมืองเปรียบเทียบกับพม่า เคยเดินทางมาไทยบ่อยๆ และพูดภาษาไทยได้

「矢野教授はタイに大変詳しい日本人研究家で、チャイワット教授(チュラロンコン大学政治学部教授で日本専門家)によれば、矢野教授は京都大学東南アジア研究センターの研究者でヤラー県に3年フィールドワークを行ったことがあり、タイとビルマにおける軍の政治的役割についての比較研究論文を執筆した。度々訪タイしたことがあり、タイ語が喋れた」

ここまで読めばなるほど、矢野暢教授はタイ側からも認められた研究者なのだなとなるが、続きがある。やはり翻訳文は下に続く。
แต่ความเห็นของ ดร. ยาโน ถูกนักวิชาการท่านอื่นๆ ตอกกลับกันระนาว อาจารย์ไชยวัฒน์บอกว่า “เนื้อหาตามข่าวหนังสือพิมพ์อาซาฮีพูดถึง ดร. โทรุ ยาโน ว่าไม่ได้ศึกษาประวัติศาสตร์ตอนนี้มากเท่าใดนัก จากเอกสารต่างๆ ที่มีอยู่ในญี่ปุ่น แล้วก็ออกมาโต้แย้ง และเดี๋ยวนี้ในหมู่นักวิชาการญี่ปุ่นส่วนหนึ่งก็ไม่ค่อยยอมรับ ดร. โทรุ ยาโน มากนัก เพราะช่วงหลังๆ มักจะเข้าไปยุ่งกับการเมืองมากกว่าที่จะค้นคว้าทางวิชาการ

「だが矢野教授の見解は他の研究者から多大な批判を受けた。チャイワット教授によれば、朝日新聞の記事に従えば矢野教授は現在歴史研究はあまりしておらず、日本国内の情報によれば論争が絶えず、同時に研究者達の一部は矢野暢教授をあまり認めなかった。それは彼がその後研究より政治に熱心になったからだ」

チャイワット教授の談話が語られた日時が不明だが、彼がアユタヤ時代のタイ語文献を精読した話は無い。弟子にでも読ませていたのだろうか。微妙な話だが、昔の学者は学問が出来ればよく、現在のように社会性や人間性は大して問われなかった。

彼の起こしたセクハラ事件は現在ならmetoo案件としてXで炎上しただろう。前述の通り矢野暢教授は日本国内の批判に耐えかね国外逃亡している。

そんな人物がアウンサン・スーチーの恩師として彼女に民主主義をどう教えたのか不明だが、現在のミャンマーが内戦状態に陥った責任の一部は矢野教授にあるのかもしれない。

死者を鞭打つことは私の趣味ではないが、彼の存命中にもし「弥助サムライ説」が起きていたら矢野教授はその流行に乗っていたような気がしてならないので釘を刺しておく。

今でも「アウンサン・スーチーの恩師だった」という理由で矢野暢教授の「山田長政不在説」は日本のミャンマースーチー派(彼女はビルマ族優先主義者であり民主派とは呼べない)に人気がある。ビルマ族の視点から見れば山田長政は仇敵アユタヤ王朝側の存在で評判が良くないのかもしれない。

タイの女傑タオ・スラナリー(ท้าว สุรนารี)がラオス側では裏切り者扱いされているという説も聞いたことがあるので歴史あるあるな話だが、矢野暢教授がセクハラ事件を起こした後ウィーンで客死したという人生は、彼が嫌ったであろうピブン・ソンクラーム元帥(จอมพล ป. พิบูลสงคราม)が華人なのに人気があることをタイ貴族側に嫌われ、クーデターで国を追われ神奈川県相模原市で客死したことと重ならなくもない。

ピブン・ソンクラームは第二次大戦中日本側につき、日本軍の協力を得て彼の「汎タイ主義」により仏領インドシナからタイの旧領土を奪還したが、彼が連合国側に出した宣戦布告を握り潰したのが当時の駐米大使タイ貴族セーニー・プラーモート(ม.ร.ว.เสนีย์ ปราโมช)とコーデル・ハル米国務長官。

ม.ร.วとは貴族の階級หม่อมราชววศ์(モムラーチャウォン)の略称で、かなり王室の血筋に近い者にしか与えられない称号。要するに王室派なのだが、セーニー・プラーモートは連合国派の地下組織セーリータイのメンバーでもあった。

タイ近現代史については上記「タイ-独裁的温情主義の政治」が詳しい。著者のタック・チャルームティアロン氏は国外でこの本を執筆したそうだが、読めば確かにタイ国内では非常に微妙な話であるアーナンタ国王謎死についても言及している。

ともかく日本の敗戦後、ピブン・ソンクラームの宣戦布告は無効となり、従って仏領インドシナを日本軍だけが理由不明のうちに侵略したことになってしまった。それがXなどネットで度々語られる「日本のベトナム侵略」の概要なのだが、やはり歴史は原典を漁らなければ語れない。私もベトナム語は読めないのでいちいち反論していない。

タイ側で「本当にタイ語が出来た」と称賛されているのは石井米雄京都大学名誉教授だが、矢野暢教授については前述の通り「タイ語が話せた」程度の評価。

やはり矢野暢教授はタイ語文献を読めないままに「山田長政不在説」を提唱したのではなかろうかと疑問を呈してみる(了)

記事作成の為、資料収集や取材を行っています。ご理解頂けると幸いです。