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Happy 777th Birthday, Jimmy Page!

今日は、世界で一番重要なミュージシャンの一人、ジミー・ペイジさんの777歳(!)の誕生日です。

レッド・ツェッペリンのメンバーからは『ジミー』『ペイジ―』『オールドガール』(髪のセットに時間をかけるので)、ファンからは『ジミー』、日本のおじさまファン界隈からは『御大』なんて呼ばれていますね。

少年時代からギターとブルースに夢中になり、両親に暖かく見守られながら、めきめきと腕を上げていきました。14歳の時、スキッフルグループの一員としてBBC『All Your Own』という番組に出演を果たし、地元のバンドで活動を始めます。

バディ・ホリー、リッチー・バレンズとビック・ボッパーが飛行機事故で亡くなったと知らせが載った新聞が来た朝のことはずっと忘れないだろう。打ちのめされた。コンサートに行き、彼らの素晴らしい音楽を聞いてみたかった。でも、彼らは遠くにいなくなってしまった。重苦しい気持ちのまま、学校へ行った。僕は友人にバディ・ホリーが亡くなったのを知っているかと尋ねた。彼は、『新聞に載ってたよね?』と答えた。僕にとっては、バディ・ホリーが亡くなったことは悲劇だった。何故なら、僕らが音楽的に何を失ったかを理解していたからだ。そして、その時、僕の音楽に対する情熱が他の人達と根本的に違うことに気がついた。
ージミー・ペイジ(The Anthologyより)

その後、ニール・クリスチャン&ザ・クルセイダースに加入、ハードなツアー生活で体調を崩し脱退、16歳の時に音楽の次に興味のあったアートを学ぶためサットン・アートスクールに入学を決めます。

アートスクールに入学を決めたのは、ダンスホールにいる人たちが望むTOP20の曲を演奏するのにうんざりしていたからです。僕は、シカゴから聞こえてきていたブルースをより好んでいました。-ブルースのるつぼ、ほぼトランスミュージックのようなインベンションと繰り返しのリフ。リトル・ウォルター、マディ・ウォーターズやボ・ディドリー、ハウリン・ウルフ、チャック・ベリーに夢中でした。
-ジミーThe Anthologyより
セッション・ミュージシャンとして大物と共作することはガッカリしますね。何故なら、彼等は僕達の期待通りではないし、その他の事についても、です。(将来の職業的な野望は?ずっとギタリストでいたいですか?自分のレコードを制作したいですか?)いえ、アートに大変興味があります。アートでやっていけるようにギターで稼げるといいのですが。
―ジミー1963のインタビューより

アートスクールに入学しても、セッション・ミュージシャンとして活動は続けていたジミー。ロンドンで売れっ子のセッション・ミュージシャンとなります。

僕は、若いながらもR&B、ブルースやロックなどのすべての音楽のリファレンスを持っていたし、フィンガースタイルのアコースティック奏法も出来ました。初期は、コードがあっても『何か弾いてみて』と言われて、小さな(曲)の断片をつなぎ合わせ、ただコードを弾いているだけではありませんでした。推察するに、そういったことが評判になり、信頼されていました。スタジオ・ミュージシャンの世界は狭いですからね。振り返って考えると、僕はものすごくうまくやっていたのだと思います。何故なら、時は金なり、一秒一秒がお金ですから、もし失敗しようものなら、二度と声はかからない訳です。もし、僕が期待されていた通りの働きが出来なければ。その当時のプレッシャーは大変なものだったろうと今になって思いますが、当時はそんなことを感じていなかったように思います。
―ジミーセッション・ミュージシャン時代を振り返って/92Y

セッション・ミュージシャンとして多忙な日々が増えるにつれ、在学していたアートスクールの授業を欠席することが増えていき、ついにアートスクールを退学することになります。

ジミーがアートスクールの多くの授業に出席しなくなった時、憤慨した(当時サットン・アートスクールで教えていた)私は彼に『絵筆か、ギター、どちらかを選びなさい。』と最後通牒を発しました。
-クリストファー・クレアモント

アートスクールを後にしてからは数えきれないセッションワークスをこなし続けていきます。その過程の中で、後にレッド・ツェッペリンのベーシストとなるジョンジーとの出会うことになります。

ジミーは音楽に情熱的だったから、すぐ好意を持ちました。音楽的な知識も豊富で古いレコードについても詳しかった。彼はいつもレコーディングに興味がありました。昔は、僕らはある意味においてはオタクのような感じでしたね。セッションが終わると、殆どのミュージシャンはゆっくりゴルフの雑誌を読んでいましたが、僕らはコントロールルームに行って、プレイバックを聞いたり、エンジニアやプロデューサーを観察していました。どうやってレコーディングが行われるのか知りたかったのです。ジミーは静かで控えめな性格でした。
-ジョンジー2008年Uncutより

セッション・ミュージシャンとして数々の学びを得ながらも、スタジオの外でのキャリアを求めたジミーはヤードバーズに加入します。しかし、とにかくハードなツアー生活、そして作品作りに時間をさけず、契約上の問題を満たすためだけに、納得しない出来でもシングルを発表しなければならない状態に、メンバー全員が辟易し、ついにヤードバースは終焉を迎えます。ジミーにはヤードバーズとして契約したツアーの日程が数日残されることになります。

キースとジムがヤードバーズを辞めると決めた時、僕は次に何がしたいか完璧に分かっていました。(略)もしギタリストがバンドから離れたら、オーディエンスはそのギタリストを追いかけます。ジェフがヤードバーズを脱退した時も、人々は彼が次に何をするのか興味津々でした。なので、ヤードバーズが内部でバラバラになった時、新しい自分のバンドを結成しようと決意することはそう難しいことではありませんでした。
ージミーThe Anthologyより

そして、自分のバンドを結成するためにメンバー探しをはじめ、パズルの終盤のように次々とレッド・ツェッペリンのピースが揃っていきます。初めにボーカリストとして目をつけていたテリー・リードにロバート・プラントを紹介され、ロバートと同じバンドでドラムを担当していたボンゾにも出会うことになります。そして、ジョンジーが加わりジミーのボートハウスにてリハーサルとセッションに明け暮れる日々。ニューヤードバーズとして、ヤードバーズの残したツアー契約を遂行し、その後、レッド・ツェッペリンとして活動をスタートさせます。
(長かった...。)

最初のリハーサルが終わった後、次のステップとしてメンバーにパンボーン(ジミーの家)にくるように提案しました。そこで、ファーストアルバムに収録される曲などに取り掛かっていきました。パンボーンはアルバムの湯だまりのような場所でした。もし、パンボーンに家を購入していなければ、便利なリハーサルの場を提供することはできませんでした。皆にとって、ロンドンにわざわざ旅をするより利便性がよかったのです。振り返って考えれば、1968年から1969年までパンボーンでリハーサルをしていましたが、騒音などで住民から苦情が来たことはありませんでした。きっと彼等は、僕らの演奏がなかなかいいなと思っていたと思います。

あの時代には、多くのバンドはそれぞれバンドの中に一人スーパースターがいたものです。メンバー達は互いに競うようにプレイするか、一人のスーパースターを中心にバンドが作られていきました。僕は、自分の強みを持ち、かつお互いの才能に混ざり合えるような四人のマスターミュージシャンを得たいと考えていました。レッド・ツェッペリンを四人全ての才能を展示できるバンドにしたかったのです。そうすれば、四人それぞれが尊重されるからです。レッド・ツェッペリンは、個として音楽的な筋肉を動かし、そして集団としては今までにないような演奏ができる機会になるはすだと考えました。恐ろしいほどダイナミックなセットを作り上げることができると思っていました。私の見立ては正しかった。
―ジミーThe Anthology より

ジミーの凄さと魅力

ジミーの凄さを考える時に、ビジネスマンとしての側面、アーティストとしての側面、そしてプロデューサーとしての側面で考える必要があると思います。
ビジネスマンとして、ジミーはそれまでのプロデューサーやマネージャーとアーティストとの力関係を大きく変えたと言われています。アーティスト側が大きな力を持てるようになったのはレッド・ツェッペリン以降かもしれません。それはきっと、セッション・ミュージシャン時代になかなかエンジニアなどにプレイバックを聞かせてもらえなかった経験や、ヤードバーズ時代にハードなツアーを精力的にこなしながらも、報酬として受け取ったものが見合わなかったと感じたことや、契約上の理由だけでシングルを発表しなければならなかった経験から、彼はそういう風に動いたのかもしれません。ジミーは金にうるさい、権利にうるさい、情報を小出しにするといった一見マイナスな意味で囁かれていることも、バンドの神秘性を高め、そして彼らが音楽だけに集中できる環境を生み、それが現世に多くの良作を残す結果につながった筈です。

僕は、世界で一番のレッド・ツェッペリンのファンです。彼等の音楽、彼らの立ち回り方、彼らの全体的なマネジメントシステム。彼等は僕らの青写真でした。
ーブライアン・メイ

アーティストとして、プロデューサーとしては、彼の作曲、製作においての才能が抜きんでていることは語りつくされています。印象的なリフをかなりの純度で量産したことはどのアーティストと比べても一人勝ち状態だと思います。そして、アーティストとしてもプロデューサーとしてもひとつのジャンルにこだわることなく、そしてシンプルなコードやリフでもクールに聞こえるよう演奏するスキル、そしてそれをレコードに収める知識を合わせもったアーティストも彼以外いなかったのではないでしょうか。

(もし自分が書いたリフだったら良かったのに、と思うリフはなんですか?)トニー・アイオミ:Kashmir.
ートニー・アイオミ、ファンからの質問に答えて。

私が選ぶジミーベストワークス5選

レッド・ツェッペリンってジミー・ペイジって名前は聞いたことはあるけれど、作品はどこから聞いたらいいのか迷っている人にお勧めしたい、ジミーの才能が特に際立っている5つの作品をご紹介。

1. Kashimir
シンプルなのに雰囲気をここまで表現できている、まさにレッド・ツェッペリンの真骨頂と言える曲だと思います。リフがループしていくので、一度耳にしたら、頭から離れることがない曲になると思います。世の中的には、レッド・ツェッペリンと言えばStairway to Heavenというのが定説だと思うのですが、私はレッド・ツェッペリン一番の名曲はKashimirじゃない?っていつも考えています。

2. The Song Remains the Same
元々はRain Songのオーバーチャーとして製作され、ロバートがすごくいい曲だから歌詞をつけよう!となって生まれたこの曲。とにかくジミーのギターが楽しそうに前へ前へ進むドライブ感がたまらない一曲です。DVD熱狂ライブでのプレイは一見の価値ありだと思います。衣装も本当にかわいいんだよね...。

3. Ten Years Gone
14本のギターを使用してハーモニー・セクションをオーバーダビングして製作されたと言われている曲で、本当に美しいハーモニーを聞くことが出来ます。私はジミーのエレキよりアコギが好きなので、余計この曲が好きなのかもしれませんが、疲れた時に聞くと癒されます。

4. You Shook Me
レッド・ツェッペリンオリジナル曲ではありませんが、文句のつけようがないこの曲のセンシュアルなギターソロはジミーの数多くのベストワークスの中の一つだと思います。

5. Rock and Roll

逆にこの曲を嫌いな人っているのかなっていう位ロックとロカビリーのいいとこどりしたポップな曲です。バンドでセッションをしている時に偶発的に生まれ、そこにジミーが即興のリフをつけわずが15分で完成させたという天才集団にしかできない方法で生み出された曲であり、一夜限りのO2復活ライブでもラストで演奏され、実質レッド・ツェッペリンとして最後に演奏されたのもこの曲でした。

色々ツラツラ書き連ねましたが、ジミーの一番の魅力は、とにかくギターを楽しそうに弾いている姿だと思います。これだけ書いてきて、こんな薄い結論で申し訳なくなりますが、やはり、いつの時代もキラキラしているところが彼の一番の魅力であろうという結論に辿り着きました。
ギターに嵌まった少年時代、セッションマンとして活躍した頃、ヤードバーズに加入した頃、レッド・ツェッペリン時代、ARMS時代、Page and Plant時代、Black Crowes時代...。どの時代の彼の写真を見ても、ギターを弾く彼は、はじけるような笑顔でこちらまで、幸せな気分にさせてくれる表情をしています。
自ら進んで自分のプライベートを語ることはしない彼だけに、ギターを弾いている姿、彼が奏でる音が彼の真実や生き方を雄弁に物語っているような気がします。

77歳の誕生日おめでとう、ジミー。

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