水脈が繋ぐ時空:新宿から皇居へ、玉川上水の跡を辿って(2024年12月)
先月12月、文脈デザイン研究所の「都市圏流域フィールドワーク」に参加し、新宿から皇居までの玉川上水下流の跡を辿る旅をしました。
大都市東京の都心部において、先人たちが築き上げた卓越した都市づくりの痕跡を探る貴重な機会となったので、共有します。
1.江戸の水源を求めて:玉川上水の誕生
玉川上水の話をする上で、東京の地形を理解しておくのが大事だ。
江戸の地形
現在の東京都心の地形は、大きく分けて山の手台地と低地の二つに分かれていた。現在の皇居がある場所は、この二つの地形が出会う場所であり、かつては海岸沿いの湿地帯であった。
江戸時代初期、日比谷入江と呼ばれていた海は、御茶ノ水の谷を削った土砂で埋め立てられた。霞がかかるような風景であったその場所は、「霞ヶ関」という地名の由来となっている。
低地部分の代表的な場所である「茅場町」の名は、葦や茅が生い茂る湿地帯が広がっていた証である。この地域一帯は、大潮の際には海水が押し寄せ、地下水は塩水であった。
こうした地形の特徴は、江戸の水系にも大きく反映されている。山の手台地を流れる神田川、目黒川、渋谷川といった河川は、いずれも武蔵野台地から東京湾に向かって流れており、これらの川に沿って深い谷が形成されている。この地形を巧みに利用し、水路網が張り巡らされていった。
徳川家康は江戸に遷都後、京都にも負けない都市づくりを目指した。しかし、地下水を掘っても塩水しか出ない土地で、増え続ける江戸の人口を支えるため、大きな課題に直面する。その解決策として、40km離れた多摩川から水を引くという壮大な計画が立案された。
当初は井之頭公園を水源とする神田上水が整備されたが、人口増加に伴い水不足が深刻化。1650年代に玉川上水の建設が始まった。
驚異の土木技術が織りなす水の道
ポンプが存在しない時代に、いかにして水を運んだのか。
その答えは、自然の理を巧みに活用した驚異的な土木技術にある。
多摩川上流(羽村)からの123mという高低差を、自然の勾配を利用して、ゆっくりと、しかし確実に水を流していった。
工事は、当時の最新技術を結集して行われた。まず、水準測量によって地形の高低差を正確に把握し、緩やかな勾配を維持するよう、徹底した測量が行われた。谷を避け、地形を読み、わずかな傾斜を丁寧に作り出していく。
精緻な計画と技術の結集により、このプロジェクトはわずか3年で完成した。重機がない時代。現代からしても驚異的なスピードであり、これは江戸幕府の組織力と技術力の高さを示す事例だ。
その後、玉川上水は、400年近くにわたって使用され続けた。
現在の新宿副都心は、1965年まで淀橋浄水場として機能しており、その後、東村山浄水場が完成して利根川の水に切り替わるまで、重要な水源であり続けた。
新宿副都心の二層構造の謎:淀橋浄水場の遺産
さて、淀橋浄水場とは何か?現在の都庁のある新宿副都心のことだ。
現在は超高層ビル街になっているが、以前は広大な浄水場があった。
現在の新宿副都心にいくと、地下と地上の二層構造になっているのが分かるだろう?
方向音痴な私は、最初の頃、自分がどこを歩いているか分からずに迷ったものだ。
この二層構造は、かつての淀橋浄水場の名残である。
上部には沈でん池とろ過池、下部には浄水池が設けられ、この二層構造が現在の新宿副都心の都市構造に大きな影響を与えることとなる。
1893年(明治26年)に建設が始まった淀橋浄水場は、敷地面積は約11万平方メートルに及び、一日当たり15万立方メートルという膨大な給水能力を持っていたとされる。
浄水場は1965年まで稼働を続け、その間、東京の近代化と発展を支え続けた。
東村山浄水場への機能移転後、この広大な跡地の再開発が持ち上がり、現在の超高層ビル群が建設された。
2.玉川上水:新宿御苑から皇居へ
新宿から四谷へ:水の分岐点
多摩川から流れてきた水は、甲州街道を通って、現在の新宿三丁目の都立新宿高校付近に到達する。そこから新宿御苑に入り、複数の水路に分かれていく。
一つは四谷上水となって江戸城へと向かう本流だ。(地図の北側上部)
次に、谷地形の特徴を持つ千駄ヶ谷へ流れる水流(南の千駄ヶ谷門)
そして、今は無き「渋谷川」へ流れるものもあったようだ。
渋谷川の源流を訪ねて
新宿御苑内の「母と子の森」(地図の左側)には、渋谷川の源流とされる場所がある。
この日は工事?なのか行き止まりだった。。
この水は、渋谷の谷に流れる。
渋谷は道玄坂、宮益坂の急な傾斜が示すように、渋谷は大きな谷地形を形成しており、大雨の際には度々氾濫を引き起こしていた。
渋谷を通った水は、麻布十番から金杉(現在の浜松町付近)へと流れ下っていた。
今回は玉川上水なので渋谷川は見ていないが、渋谷川の跡地を辿っている人も多いのでググると色んな人の話が出てきて面白い!
江戸の玄関口:東京都水道局
さて、玉川上水の本流に話を戻す。
新宿御苑の北側の遊歩道には玉川上水の水路の跡地が残っている。多くの説明書きも残されている。
ここの遊歩道の脇には水路っぽい名残がある。ただ、実際はこんなに狭くなかった。
この遊歩道の木から木の間くらいまでが水路の幅だったようだ。
さてさて、この遊歩道を新宿御苑駅に東に進むと、大木戸門(新宿御苑駅の出口あたり)付近に、東京都の水道局が見えてくる。
ここには往時、江戸の玄関となる門が存在した。
江戸への門は4つ。江戸四宿と呼ばれ、品川、新宿、板橋、北千住にあった。
新宿は、江戸四宿の一つであり、この門をくぐると江戸の街中に入り、玉川上水は四谷上水と名を変える。
現在も水道局が残り、当時の史跡を見ることができる。
江戸城へ行きつく上水
さて、ツアーはここからタクシーに乗り3キロ離れた皇居の半蔵門で降りる。
四谷上水は半蔵門の内堀に水を引いていた。
そこからお堀を北側にぐるっと歩き、千鳥ヶ淵を通って、東側の北桔橋門から皇居東御苑に入る。
千鳥ヶ淵の脇に残っている石の堤防は江戸時代のものがそのまま残っているらしい。
江戸城跡地だ。ここが玉川上水の終点となる。
玉川上水は、江戸の街、そして江戸城に水を届ける目的で作られたからだ。
江戸城で使いきれず余った水は内堀に流し、そこから海に流していたという。
3.海の畔に立つ江戸城
さて、現在の皇居は海から大分内側に入った場所にあるが、元々は海の岬に立っていたのをご存じだろうか?
以下の写真の奥の高層ビルは海(沼地)に埋立して建てられている
玉川上水の流路は、武蔵野台地の地形の上に作られている。
新宿御苑(標高30メートル)から皇居半蔵門までは、ほとんど高低差がない。
北桔橋門から大手門へ歩くと、途中で一気に下る坂がある。ここで一気に下って、海に繋がっていた。
写真では分かりづらいが、ここから一気に坂を下る。
現在、高層ビルが並ぶ大手町、日比谷付近が湿地帯、海岸だったなんて、想像がつかない。。
銀座は日本でも有数の一等地だ。ここに高層ビルを建てるには相当のお金がかかる。それは、地価が高いことに加え、湿地帯の上に建設するために建設費が高くなるからだ。
ここに高層ビルを建てるのに、巨大な杭を打ち込まなければならない。
4.自然との共生:穴太積みとグリーンインフラ
ツアーも最後。江戸城跡を散策する。
江戸城跡地に残る石垣には、現代のグリーンインフラの先駆けともいえる技術が息づいている。滋賀県の石工集団「穴太衆」(あのうしゅう)による「穴太積み」(あのうづみ)は、織田信長の安土城建設を契機に全国へと広まった技術である。
ブラタモリなどでも何度も紹介されているらしい。(私は初耳だった)
その特徴は自然との共生にある。石垣の上に意図的に常緑樹を植え、その根が城壁を支える仕組みだ。石と石の間の隙間は、水が染み込み、根が育つための巧妙な設計である。
明治時代の西洋からの近代的な価値観が入り、「隙間は危険」という認識が生まれ、それらが埋められていく場合もあった。そうなると水が入らない。。
さらに、上部の木々が土地利用の目的から「邪魔モノ」として伐採された。その結果、水や養分の循環が絶たれ、石垣は脆弱化していった。
近年の大雨による熊本城や松山城の城壁崩壊は、気候変動の影響による大雨が原因ではない。隙間を埋め、上部の木を切り倒し、根による維持がなくなったからだとされている。
国交省が掲げるグリーンインフラ:「自然の力を活用して、コストを抑え効果的なインフラを整備すること。」
まさに、「穴太積み」は先住民のグリーンインフラの技術と言えよう。
5.そして水は巡る(駿河湾から多摩川へ)
さて、16時の閉園と共に、皇居東御苑を後にする。最後は、近くのホテルのロビーでラップアップ。そこで、今回の玉川上水の源流となる多摩川の水はどこから来ているのか?の話しになった。
玉川上水の源流を辿ると、そこには壮大な自然の循環が見えてくる。この水循環は、実に広域的な気象システムによって支えられている。
まず、駿河湾(静岡県)で黒潮の影響を受けて発達した温かい雨雲が北上する。黒潮は、年間を通じて20度以上の暖かい海水を運んでくる海流であり、この暖かい海水が水蒸気を大量に発生させる。この水蒸気を含んだ空気が北上する際に、富士山にぶつかって上昇気流となる。
一方、八ヶ岳からは冷たい風が吹き降ろしてくる。この風は二つの要因で冷やされている。一つは、シベリアからの寒気の影響、もう一つは八ヶ岳周辺に残る残雪による冷却効果である。これが、避暑地として知られる八ヶ岳の冷涼な気候を生み出している。
この暖かく湿った空気と冷たい空気が奥多摩で出会うことで積乱雲が発生し、大量の雨を降らせる。この地理的な特徴により、奥多摩地域は年間を通じて安定した降水量を確保できている。
玉川上水の水源である奥多摩は、戦前から東京市によって重要な水源地として管理されてきた。
おわりに:現代に生きる水の記憶
現在、東京の水道水の大半は利根川から供給されており、玉川上水からの水はわずか数パーセントに過ぎない。
しかし、かつて湿地帯であった場所に日本最大の都市を築いた家康の壮大な構想と、それを支えたインフラの痕跡は、今なお都市の中に脈々と息づいている。
水は都市の生命線だ。ど田舎の湿地帯に日本最大の都市を築いた家康。
そのインフラが今でも脈々と受け継がれているのは興味深いし、持続可能な都市づくりを考える上で、現代にも貴重な示唆があったように思う。
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