【神奈川のこと70】名犬レオ(鎌倉市/ユーコープ西鎌倉店)
友達が18年半共に過ごした愛犬を、先日亡くした。
よって、これを書く。
昭和53年(1978年)、西鎌倉小学校2年4組に転校してまだ日の浅い、5月か6月のことだった。
夕方、近所の生協(現ユーコープ西鎌倉店)に母と弟と買い物に行った。
生協の会員証が、青いメダルだった時代。
生協の店先に花屋があり(現在もある)、そこに一匹の子犬が繋がれていた。
顔見知りの店員が、「朝からずっと繋がれてるのよ」と言っていた。
それまでマンション暮らしだったので、一軒家に引っ越したら犬を飼いたいと考えていた。
だから、「うちで飼おうよ」と母に言った。
案外、すんなり母がOKしてくれたので、その子犬を連れて家に帰った。
夜、父が帰宅。
「ダメ」と言われるのが恐くて、父が風呂に入っているところを狙って、脱衣場から「生協で捨てられていたから犬を拾ってきた。飼いたいけどいい?」と聞いてみた。すんなりOKとなった。
ついでに「名前はどうしようか?」とたずねた。
「レオだ」
と父は、前々から決めていたようにすぐに答えた。
その即答ぶりには、子供心に感嘆した。
しばらくして、レオはメスであることが分かった。
でも当人(犬)は、もうレオと認識してしまったようなので、そのままレオで通した。
当時は、まだ、モノレールの線路を挟んで向かいの通称、トンネル住宅が、宅地造成中だったので、レオを散歩に連れて行くと野犬たちに取り囲まれたりした。
レオも果敢に応戦したが、多勢に無勢だったので、そんな時は母が割って入りレオを助けた。
庭に繋いでいたが、あるとき、家族で出かけて車で帰ってくると、鎖をつけたまま、レオがしっぽを振って庭から出てきた。
それ以来、放し飼いとなった。
当時、犬を放し飼いをしている家は近所にはなかった。
その内、近所でも放し飼いをする家が増えて行った。
レオには、特等席があった。
それは、道路に面した庭の一角であった。ちょうど、西鎌倉小学校の通学路になっていたので、レオは通学途中の児童たちの人気者になった。
みんな、「レオ!」と呼んで学校帰りに可愛がってくれた。
ある時、一つ上のいたずら好きの二人組が、レオにドンパッチという口の中で「パンッ!」と弾けるお菓子を食べさせやがった。奴らの顔は今でも覚えているぜ。
みんなに愛想をふりまくレオであったが、あるとき浮浪者風の男が酒の匂いをさせてやってきた。そいつには、猛烈に吠えた。その男は、母に「この犬に噛まれた」と因縁をつけてきた。なんだかんだで、母はその男にいくらかの金を渡した。そんなこともあった。
小学校5年の秋だったか。ある晩、すでに床についていたら母に起こされた。
「レオちゃんが赤ちゃんを産んだよ」。
懐中電灯を持って、家の裏にある犬小屋を覗くと、レオの目が光った。
そして、お腹の辺りにもぞもぞと何匹かの生まれたての子犬がいた。
すっかり家族の一員のようになっていたレオであったが、その時ばかりはレオに野生を感じた。神秘的であった。
その後、レオはもう一回、子供を産んだ。そして、小学校の同級生うしおの家が経営している動物病院で子宮を取る手術をした。
中学3年になると、夜中に家を抜け出して友達と遊ぶようになった。夜中にそろりそろりと帰宅すると、レオもどこかに遊びに行っていたか、家の前で鉢合わせした。
そんな時には、お互いに、「まあ、このことは家の者には内緒で」と言った感じで顔を見合わせ、それぞれ眠りについた。
犬は序列に敏感だ。
我が家も例外ではなく、レオは序列に忠実であった。順番は、父→母→私→レオ→弟であった。
大学を卒業し、社会人になってからも、レオは生きていた。
だんだんと目が白くなり、耳が遠くなってきた。
レオを最後に見たのは、平成8年(1996年)26歳の秋の夜。
仕事で遅くなり、深夜に帰宅した時のこと。
レオが玄関の前に姿勢を正して座っていた。
一筋の月明かりがレオを照らす。
幻想のようなその光景に言葉が出なかった。
静かにレオの横を通り過ぎたが、老衰したレオはぴくりとも動かず、真っすぐに正面を見つめたままであった。
その翌日、上司との飲みが深夜まで続き、帰宅できずホテルに泊まった。
その日にレオは帰天。死に目には会えなかった。
仕事から帰ってみると、リビングの暖房機の上にレオの写真と、小さなソーセージが供えられていた。ひとしきり泣いた。
昭和53年(1978年)5月、地元の生協で出逢って家に連れて来てから、約18年半。
喜怒哀楽を共にしたまさしく家族であった。
いつの日か、あの世に行ったら、一番初めに出迎えてくれるのはレオであると確信する。
そう、鎖をつけたまま、耳を寝かせて尻尾を振り、庭から出てきたあの日のように。