オーラがある人は実はあんまりたいしたことはない。
昨日、国立民族学博物館で月岡さんと志人さんのパフォーマンスをみさせていただきました。
とてもとても、副詞が何個ついても尽くしがたい素晴らしいパフォーマンスでした。素晴らしい体験だった。
月岡さんのパフォーマンスの途中に、観客席の方からぬらっと志人さん現れて、ささっとパフォーマンスの中に入っていく。
そこにすごさを感じました。
その時、私は月岡さんの演奏を目を瞑って聴いていたのですが、なにかびびっと感じるものがあり、なんとなく観客席を見ました。したらば、インディゴの野良着(?)の人物が混じっています。あっ、志人だと。(すこし、私に微笑みを向けたくれたように思います。自意識過剰でしょうか。)
そのようすがあまりにも場の雰囲気に溶け込んでおり、風体でしか判断できませんでした。
そしてスタッフを分け入り、圧巻のパフォーマンス。ある人がみたら、神が降りてきたとも言うでしょう。この世のものとは思えない。
(この曲ではありませんが、この曲を初めて聞いたときのような、新鮮な驚き、それとどこか自分と共鳴しているような感じでした。生の声が聴くことができて本当によかった。)
そして、また観客席の方にスっと溶け込んでいきました。
そこで私は、志人さんは本物だ。と痛切に感じた。
南直哉さんが養老先生との対談本(「老い方、死に方」)でこんなことを言っていました。
ある時、参禅された方に青いオーラがあると言われた。満更悪い気がせずに思っていたが、やがて違う気づいたと。
宮崎奕保禅師の座禅をみたからだそうです。その様子は、まったく気配がしない。木彫りの人形があるみたいな感じだったそうです。
そこから、私は存在感のあるや、オーラをまとっているような人は都市化した世界では重要になるとは思います。
ただ、私には小成にしか思えません。
志人さんや武道家、養老先生、内田先生などの伝道者の方々は、見えないものを見ようとする者にしかわからない。いや、視覚という枠組みにこだわっていると決して感じ取れない。
今回志人さんを見て、音の波にのせて伝播させる、とてつもない伝導者であることが伝わった。
このわからないけどわからないままに伝えられる。後世に紡がれるようそのまま伝える。
そんな者に私はなりたい。
後世に伝えず、自分だけが良い思いをしたいと思っている時には、何も自分にならない。
何かものを得るためには、始めに渡さなければならない。