看護についてーー現代の死のあり方ーー
これまでnoteに投稿してきたことは、哲学、ユダヤ教、仏教などを少しかじったようなものが多かった。だから、私は哲学について学んできた人なのかなと思う人もいるかもしれない。
しかし、私の専攻は看護で、もうすでに看護師免許も持っている。でも、それを生業とするつもりもない。
看護とはなんなのだろうか。大学では、その本質的なことについては教えてもらえなかった。
定義では、医師の補助だとか、ケアをする人etc.と教えてもらえるが全く実感を伴っていない。
何を志向しているのか見当もつかない。
漠然としたはてなを前に、わっしーの聴くことの力に出会った。
(「聴く」ことの力: 臨床哲学試論 鷲田清一)
そこで、看護についての解像度がぐんとあがり、新たな視点も見いだせた。
看護とは、看ることである。
介護は、介という字の如く、動けない人に介入して動かしていく。
看護は、看るということが主で、この患者さんだったらここまでは自分でできるな、ここからは少し補助をするか。など、日々の観察を通して、残存機能を保持、向上させていくものである。
この日々の観察、関わり合いの中で、看護師という役割だけでなく、人としての関わりをせざるを得なくなる。
医療の発生する場とはなんだろう、患者側からすれば一生に幾度とない大事件、医療者としては日常。それが臨床の場。
医療者はどうしても感覚が狂ってしまう。
それの現れ方は様々だ。お局さん、過食、性の乱れ。
フロイトによると、人は愛しいと思う反面、その人に死んでほしいと思うそうだ。アンビバレントな感情。
医療の現場ではそのようなシチュエーションはよくある。
患者の家族は、介護でしんどそうだ。人工呼吸も経鼻チューブも入って、本人は意識もほぼなく、しんどそうだ。……いっそこの方が亡くなってしまえば。
その感情を打ち消す、意識しないために必死に何かに縋る。
修羅の人格で武装、自分の弱さを押し殺す。血糖値をぶち上げ自傷。快楽で自我を放擲する。
死んでしまえ。そういった感情も吐き出せるような場はなかなかないだろう。だから、医療ビジネスがなりたっている。
この人が生きてほしいのは、当たり前ですよね?
我々が医療介入して、延命します。
お金ですか?国から出るから安心してください。(国民という財布)
その結果、チューブまみれで無理やり生かされている人が多数生まれている。
人は死なないと思っている、その社会的合意の結果がこれ。生きることは問答無用でいいという思想の結果はこれだ。
私はこの思想の背景には勝ち組、負け組という考えが大きいと思う。生き残っていくのが、勝ち組、えらいんだ。ゆえに負け方、かっこいい引き際の作法を知らない。(いまの若者はその思想に対抗するために「歳はただの数字」と主張している。(*1)良いと思う。)
引き際を知らない。別れがあることを知らない。知らないふりをしていたい。それが問題なのかもしれない。ただ、その意志決定をしているのは、死にゆく長寿の患者さんというよりも若い介護もろくにしていない、ぽっと出の長男が多い。(そして、無理やり生かすことが親孝行だと悦に浸る。)
けだし、死ぬことは良いことでも悪いことでもなくニュートラルなものだと思う。
連綿と受け継がれていく、生命。人間という共同体としての死はまだしばらくは起こらないはず。知らんけど。ビッグスケールでみれば、人は死ぬだけじゃ死なない。
個人についてはどうだろう。
ごはんが食べられなくなる。息ができなくなる。臓器が動かなくなる。意識がなくなる。
私は、これは仏教的には素晴らしいのではないかと考える。
この世の食物を必要としなくなる。この世の空気が必要となくなる。自分に執着がなくなる。
上記のように、次の世代につなぐという思想は人間というソーシャルアニマルに必要なものだった。しかし、そんな思想はこれからも失われ続け、なんでも商品化され、売りつけるのだろうと思っている。
無尽蔵な資源だと思って。
何故こんな悲観的な見方しかできないのか。それは実際に身近に行われているからだ。
端的に言えば、病院のビジネス化。
そこの病院は昔ながらの病院で慢性の人が多く、長く入院している人ばかり。だから、看護師は看てその人に合わせたケアを実施していく。そして、安らかに死を迎えていく。そんな日常と死が緩やかにつながり、老人が老いを認められ、自分の中に入り込んでくる死を徐々に認められるそんな場所でした。
ですが、経営方針が儲けようということになり、その慢性病棟はなくして、入院日数を短く、手術を増やして、回転率を上げようと。
医療介入があれば、人は死なない。死なないから不幸でなくなるとでも思ってるのでしょうか。(たぶん、なにも考えていないだけ。)
これから看護師は看ることができなくなり、業務は忙しくなり、自分の存在の場を問われることとなるでしょう。
医療と学校にビジネスを入れ込んだらろくなことにならないですよ。ほんと。
(*1)
歳はただの数字で
誰かの子どもたち
なんで憎しみ合うの?
システムちっくになって、人と人ではなく、役割と役割で結ぶ関係では人にはなれず、融通もきかず、閉塞感に満たされるでしょう。
自由(freedom)とは程遠い。鈴木大拙のいう自由、自らに由るには近いかもしれない。
けれども、原始仏教で求めたのはその意識からも自由になることではなかったのか。