〈この広い野原いっぱい〉と郵便的不安、そして、コンラッド・エイケン
森山良子さんの「この広い野原いっぱい」の歌詞はこのように続く。
この広い野原いっぱい
咲く花を
ひとつ残らず
あなたにあげる
赤いリボンの 花束にして
この広い夜空いっぱい
咲く星を
ひとつ残らず
あなたにあげる
虹に輝く ガラスに詰めて
この広い海いっぱい
咲く船を
ひとつ残らず
あなたにあげる
青い帆に イニシャルつけて
この広い世界中の
何もかも
ひとつ残らず
あなたにあげる
だから わたしに 手紙を書いて
手紙を書いて 手紙を書いて
花にはリボンをつけ、星はガラス瓶に入れて、ヨットらしき青い帆には、イニシャルをつけ、最後には、世界中の何もかもあげるから(なにも、そんなに・・と思うのだけど)と、大盤振る舞いで前置きして、その後、「手紙を書いて・・・」と懇願する歌である。あれも、これも、全部あなたにあげるから「手紙を書いて欲しい!」と、ついに真情を吐露する歌なのである。
「手紙を書いて」というのは、その言葉の底に、「なぜ今まで書いてくれなかったのか・・」という、相手への非難が、想像すると、見え隠れもする。「手紙を書いてくれるだろう・・」というような自信に満ちた気持ちは感じられず、ひたすら、手紙を受け取りたいと暴走する心の裏側には、「書いてくれるだろうか・・」という不安が横溢している。
手紙を待つ行為で生まれるのが〈不安〉である。
待つことで、不安が誕生するのである。
ちゃんと書いてくれるだろうか。手紙は、ちゃんと私に届くだろうかという不安の塊を〈郵便的不安〉というのであろうか。でも、この場合は「手紙を書いて」というと言う以前から、もうすでに不安に絡めとられている感じがしないでもない。
そして、また、待つことで、「なぜ、書いてくれないのか・・」という呪詛も、実は、片一方に生まれるのであるが・・
少し前に、FM放送で「この広い野原いっぱい」の歌がかかっていました。それで、随分前に、「郵便的不安たち」という興味深いタイトルの本を買ったことを思い出して、この歌について、考えてみました。
『郵便的不安たち』(東 浩紀著)はハードカバーの美しい本です。ジャケット買いというのがあるけれど、タイトル買いした唯一の本です。今、出してみると、2000年を前に出版されています。2600円もしていたけれど、「郵便的不安」というタイトルの〈郵便〉と〈不安〉の言葉の組み合わせが買う原動力になったと思います。
それに、郵便に〈的〉がついてしまう意外性に心が躍ります。私にとっては(私じゃなくても、たぶん…)〈郵便〉に不安な要素は全くなくて、切手、手紙、はがき、どれひとつとっても、プラスの原材料で出来上がっています。〈郵便局〉という場所もすきだけれど、〈郵便〉という文字もすき。その先につながる向こう側の世界が感じられます。切手のシートも飾っておくだけで、素晴らしい2次元空間が広がります。第一、ズルズルと同じ切手がきちんと並んでいるという図柄がすきです。
その郵便になぜ不安が登場するのか、という不思議さ。しかも、対立する言葉が一体化すると、その組み合わせが素敵になるってどういうことなのっていう疑問が、本を買う動機になったわけです。
〈郵便〉とは、送ったり送られたり(あるいは、贈ったり贈られたり・・)贈与の原型を保った、言葉が交換される場です。〈郵便〉はコミュニケーションの現場であり、言葉が行きかう市場のようなものです。情報の中継地点なので、日曜日に配達は休みでも、郵便は動いているといわれます。
郵便、郵便的、届ける、スクーター、11時、赤いポスト、赤い車、切手、サイレントスノー,シークレットスノー、宛先、差出人、文字、言葉、贈り物、葉書、外国、外国の郵便事情・・・
郵便というと、あの、『Silent Snow, Secret Snow』(コンラッド エイケン著)にも、mail man が出てくるし、『Collectors』(レイモンド・カーヴァー著)にも、mail manが出てきます。『Silent Snow, Secret Snow』では、初雪と郵便配達夫の組み合わせ、『Collectors』では、失業している男が郵便配達夫を待っている。
郵便配達夫は言葉の橋渡しをしてくれる人。
郵便には〈待つ〉という動作が不可欠で、郵便配達夫はいつも待たれている。
この前のTVでは、(何の番組だったか思い出せませんが・・)「待つことは人生の味わいだ」といっていました。というと、郵便配達夫は、「味わい」も配達していることになります。
〈郵便的〉について考えを巡らしていると、昔読んだ本とか、過ぎ去った時間とか、読みかけでまだ書架に収まっている本とか、いろんなものを配達してくれます。記憶の釣り糸を垂れているアーサー・ビナードさんの詩があったけど、そんな感じで釣り糸を垂れています。
『Silent Snow, Secret Snow』については何十年も前に、評論家の江藤淳さんが波(新潮社の広告誌)に書かれていた文章があるはずなので、その波を、ついこの間、探してみた。しかし、さすがに残っていない。ところが、『批評家の気儘な散歩』という講演体で書かれた本の中に、詳しく書かれてあるのを見つけた。パラパラとめくった本の中に、コンラッドの文字が目に入った。時々畑で農作業をしている時に、こんな感じで縄文土器を見つける時があります。
自然と故郷のイメージについて書かれた中に、雪と郵便配達夫のお話があります。ちょっと長いのですが、下記に引用します。
・・眠い、眠いと思いつづけて、もう頭が働かなくなると、疲れざましに酒を飲んで寝てしまう。そういうタチですけれども、雪のときだけはそうじゃない。深夜にわかにパッと目が覚めると、自分だけに感じられるのか、なにか異様な雰囲気がある。もしやと思って、外を見ると白いものが降っている。ああ雪だな、というわけです。しようがないから、それからまた酒を飲み出して、もうひと眠りするのですけれども、翌朝目がさめたときの感じがやはり違うのですね。なにかまだ、神経の奥底が大自然に感応して、雪だ、大変だと思っている。何が大変なのかわからないけれども……ほんとうにこれはふしぎなんですね。
それからまた、雪の日には、外が非常に静かになることも、嬉しいことです。自動車が通れなくなるせいもあって、遮蔽幕がおりたような状態になりますから。さまざまな音が雪にくるまれてしまう。そういう雪の街をポクポクとあるいて行く感じが、私は好きです。
コンラッド・エイケンというアメリカの詩人作家がおります。この人はたしか最近八十幾つかで亡くなりました。このエイケンは、「青の航海(The Blue Voyage)』という、ジョイスの”意識の流れ”の方法を応用した特異なしょうせつを、一九二〇年代に書いたことで文学史に名が残っている人ですが、この人の短編小説を、私はほとんど二十年ほど前に読んだことがあります。まだ大学に入ったか入らないころだと思いますが、『静かな雪・秘かな雪(Silent Snow, Secret Snow)』という作品で、主人公は一人の少年です。この少年が、雪の幻覚を見る話なのです。
この少年が自分の部屋で目をつぶっていると、雪がサラサラと降っている幻覚にとらわれる。この幻覚は慰めに充ちている。逆に現実の世界は、少年の心を少しも惹きつけないのです。そこに、郵便配達夫が一軒ずつ歩いて郵便を配りに来るのですが、その音も雪の幻覚の中を歩いてくるように聴こえる。そのために、郵便配達夫の靴音が、ちょうどオーヴァー・シューズをはいてでもいるような、あるいはスリッパのまま町を歩いているような、そういう音に変わって聴こえる。その足音が近づいて来るのを聞いているのが少年には非常な慰めと喜びになる。そういう感受性の鋭敏過ぎる少年の自閉症的な世界を、大変繊細に描いた小説であって、私はその印象を今でも鮮やかに覚えております。この『Silent Snow, Secret Snow』というのがすでにきれいな題ですね……Sのアリタレーションが粉雪のサラサラと降るような感じを出していて……、雪が降ると、この短編小説のことなども思い出したりします。
江藤さんが波に書かれた文章が、あまりにも印象深かったので、雪の季節になると思いだすことが多くありました。
この本(『批評家の気儘な散歩』)によると、江藤さんの場合は深夜に降る雪なんですね。私の場合は必ず早朝の初雪です。初冬の朝に目が覚めると、外の気配が、何か違う。張り詰めた透明感があって、空気がいつもと少し違う。目がさめた瞬間、外に雪が積もっているのが、窓を開けなくてもわかる。幻覚でもなんでもなくて、小学生の私は、白く一変した外の世界に心が弾みました。
『Silent Snow, Secret Snow』のタイトルは単語のすべてがSから始まるんだということに、いまになって気づいて、だから、余計に記憶に残ったんだなあと思いました。アリタレーションっていうんですね。Sのアリタレーションが通奏低音になっている小説。素敵なタイトルです。
*波を読んだとき、『Silent Snow, Secret Snow』をぜひ読みたいと思ったけれど、訳本が見つからなかった。その後、英文はもらった本の中にあったものの、正しく訳せているのか、よくわからず、『翻訳夜話』(村上春樹 柴田元幸著)を参考にしつつ、ちゃんと、読んでみようと思ったのは、それからずーっと後のことです。たまたま、『翻訳夜話』の中にある『Collectors』にも郵便配達夫が出てくるという偶然があっておもしろいなと思います。
*〈郵便〉について考えていたら、もう、8月になろうとしている暑い日に雪の話を書くことになってしまって、季節感がないねと、また、いわれそうです。