ひとことにまとめられた、その向こうにある情景 ー 釜山にて
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釜山の旅の記録を書き残します。
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落とし物の意味 ー 釜山にて|bijou blanc|note
迷い込んだ街 ー 釜山にて|bijou blanc|note
続きです。
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計画通りに、思い通りにいかない、この釜山の旅。
一見アクシデントかと思われる出来事が、私をどこかに導き、何かを知らせている。
帰国が長引き、博多行の船便チケット入手の見通しがつかない中、
そろそろ、この旅は私たちに何かを知らせている、と気づき始めていた。
今まで全く念頭になかった、下関行きフェリーのチケットを手にすることになった。
また何かがやってきた、そう思った。
山口県の下関に向かう。
山口には、もうひとつの家族のルーツがあると聞いていた。
私は結婚をした25年前、婚姻届けの提出で、自動的に本籍が山口になった。
本籍は、どこでも好きなところに変えられると知っていたけれど、亡き義父が、「こだわってそこにおいてある。」と一度だけ言ったのを覚えている。
今まで交流した親戚もいない、行ったこともない。
その地に本籍がある。
最近になって、親戚から祖先の話を聞くようになり、近代の家族の歴史が、釜山、博多、対馬、そして山口で刻まれていたことを知った。
不思議なことが起こるこの旅で、山口の下関行きのフェリーで帰国すること。そうするしかなかったこと。それには、なんの意味があるのか。
私は、義祖母のことを思い出していた。
私が結婚した時にはすでに亡くなっていたから、実際に会ったことはない。その義祖母は、終戦後、生まれたばかりの義父を抱いて大陸から日本に戻ってきたそうだ。
とても大変だったとだけ、伝え聞いていた。
「とても大変だった。」という、たった一言で語り伝えられた義祖母の帰国の道程。
その短いひとことの向こうにある、当時の情景を想像したことは、なかった。
義父は終戦直後に大陸で生まれており、日本で出生届が出されているから、その時系列を並べてみると、帰国の旅の途は、明らかに生まれたてだ。
私も出産を経験したとき、生まれたばかりのわが子を抱いた。
小さくて、はかなげで、壊れそうだった。
きれいな産婦人科で、もっと細かく言えばフランス料理のコースが出てきて、産後エステのサービスがあるような産婦人科で(この産婦人科だけが特別ではない、ほとんどの産婦人科にそんなサービスがある時代だ。)、安全に子どもを産み、産後しばらくは両親のサポートの中、安全に室内でわが子と過ごした。
こんなに安全に子どもを育てる環境があったのに、それでも、わが子たちは、小さくて、はかなげで、壊れそうだった。
義祖母は、そんな壊れそうなわが子を抱いて、混乱した中、日本海を渡って帰国をしたのだ。
「とても大変だった。」というひとことで伝えられた帰国の情景を、その時初めて想像した。
これは、後からネットの情報から知った話だけれど、終戦後、大陸と日本を繋ぐ港では、大陸から日本へ、日本から大陸へと母国への帰国を目指す人でごった返した。
母国へ帰りたいと願う大勢の人が、港付近で帰還する船への乗船を待ちわびる中、
感染症チフスが流行り、その時もまた、往来する船便がストップする事態が起きたていたらしい。
結局船が動かず、帰国できないままに残留した人々もおり、思いを果たせぬままその地に住むしかなく、その末裔が2世、3世となる。
長女とともに、留学中の荷物を抱えて、昨今流行した感染症などの影響によるアクシデントで、足止めを食らいながら引き揚げを目指す私に、義祖母が乗り移ったような、そんな気がしていた。
そんな思いを抱きながら、ついに関釜フェリーに無事に乗り込んだ。
やっと家族の待つ、日本に帰れる。
引き揚げ荷物は、特大のスーツケース2つと、特大のボストンバッグ2つと、さらに小さなバッグと手回り品。
下関港に到着した後、福岡市内の自宅までは、この大荷物の為に、港からのレンタカーを、釜山からの国際電話で予約手配をした。
夕暮れ時に乗り込んだフェリーは、釜山からのツアー客で満席だった。
どうにか乗船できたことは、ラッキーだったようだ。
船に乗り込んだ時にそこにあった、オレンジ色の柔らかい夕日の光は、船が港を出港するときには溶けてなくなり、代わって現れたのは、大都会、釜山の光を集めた美しい夜景だった。
ライトアップされた、釜山港大橋の下をくぐる。
船内の自販機で買ったカップラーメンを、長女と食べた。
こんなにカップラーメンがおいしいと感じたことはない、と長女が言った。
私もそう思った。