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選びとるちから


昨日、「価値のある情報からつく」ということについて書いた。


今の世の中、ネット上には無限の情報が飛び交い、それは手の平にあるスマホを通じて、すぐに手の届くところにある。

たくさんのサイトを見ていて感じていたことがある。
書き手独自の見解や情報で綴られた文章と、明らかに誰かの書いた情報を持ってきて書いた文章とが、あるということだ。

そういう私も、たくさんの本やネット記事を見て、読んで、それらに影響を受けて、ここにこうやって文章を綴っているし、「パクる」と「影響をうける」の境界線は分からないから、なにが良くて、なにが悪いかとかの判断をすることはできないのだけど。

だけど何となく、何かを創出したいと考える時、「読むべき記事」と「読まなくてもいい記事」ってあるのかな、と思うことが多くなってきた。
多分、新たな価値を創出するには、昨日書いた一次情報に近いものが必要で、それから遠ざかるほど価値は薄れていく「読まなくてもいい記事」になっていくのだと思う。


私は、心理学やそれにまつわる占術について興味があるので、ネットでそれに関するサイトを見ることも多い。
たくさん見ているうちに、自分が信頼できるサイトと、そうではないサイトに分かれてきた。
少し前、自分にとってはあまり信用できないと感じたサイトで、ライター募集の求人記事があったので覗いてみたことがある。
「専門的な知識は必要ありません。必要なのは、ネット上にある記事を読んで、それらをまとめる力だけです。ネットで検索されたときにヒットしそうなキーワードを入れて書くことだけです。」
というようなことが書かれていた。


図書館の本(最近は電子書籍の貸し出しも多くなった。)は、そういった情報としての価値というところで、市民に貸し出される前に、選別するフィルターがかかっているらしい。
ある意味、誰かが選別してくれた、安全な情報だけを受け取れる場所、ということだ。

情報の安全地帯ではない、ネットの上の世界。
自分にとっての価値を選別するフィルターは、自分で持つことが必要であると、今更ながら感じている。