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誠信 ~対馬への旅の記録4

対馬空港から厳原へ向かうバスの中で、A4サイズくらいの広告ポスターが目に付いていた。
対馬朝鮮通信使歴史館 、令和3年10月30日に開館」と書いてある。

それは対馬博物館から徒歩数分の場所にあった。

目的の対馬博物館を訪れた後、対馬朝鮮通信使歴史館にも足を運んだ。
訪れてみたその場所には、日韓の国交の歴史があった。

豊臣秀吉の時代、日朝関係は朝鮮出兵により失われた。
後にそれを修復しようとしたのが徳川家康。
彼は朝鮮通信使を復活させ、手厚くもてなしたという。
対馬藩はそのエスコート役となり、通訳として通信使に随行したのが雨森芳洲だった。

はじめて雨森芳洲のことを知った時のことを振り返る。
遡れば、長女が中学3年生、2015年の夏に対馬高校のオープンキャンパスに参加した時のことだった。
地元の芳洲会歴史ガイドさんの案内で、対馬を散策した際に雨森芳洲のことをはじめて知った。
江戸時代に、雨森芳洲が対馬に韓国語の通翻訳の学校を作ったこと。
そして時は巡って平成の時代、対馬高校に韓国語に特化して学べるクラスが設置されたこと。
その話を聞いたとき、時空を超えて再びその役割が対馬に降りてきていることに、少しの身震いを覚えたのを記憶している。

その後、長女は対馬高校で韓国語を学び始め、在学中には毎年夏に行われる日韓友好のイベント、朝鮮通信使のパレードに当時の衣装を着て参加した。
私と長女は韓国語を学ぶ過程で、雨森芳洲のメッセージを思い出したり、進学用の書類に彼の言葉を引用したりもした。

(雨森芳洲 交隣堤醒より)

「隣国と付き合う上では、その国の人の心や文化を知ることがもっとも大切です。利に走らず、欺くことなく、真実で交流せねばなりません。」(雨森芳洲 交隣堤醒より)

2018年の秋に、NHK「新日本風土記 対馬」が放映され、彼女の対馬での生活や朝鮮通信使パレードの様子も映し出された。

2024年の春、光枝さんについて韓国光州に行くことになった時、光枝さんにその様子を伝えたいと、しばらくぶりに「新日本風土記 対馬」のビデオ録画を見直した。
その時、雨森芳洲の紹介の中で、映像の中に一瞬「誠信」という文字を見つけた。
その時から、この「誠信」という文字のことを、いつか調べたいと思っていた。


今回訪れた対馬朝鮮通信使歴史館の資料のひとつに、江戸時代の韓国釜山の龍頭山の模型があった。
龍頭山は小高い丘で、その丘一帯が倭館=日本人居留地だったらしい。

そして、その倭館の中の日韓通訳の詰所が「誠信館」という名だったということを知った。

「誠信」
義祖父の名前は「誠信」と書いてまことと読んだ。

それは偶然なのか。


2023年の春。
私たち家族は、大正から昭和初期の我が家の戸籍を頼りに、家族の住んでいた場所を訪れていた。
それは、倭館のあった龍頭山のふもとにあった。
現在の龍頭山には釜山タワーがあり、周辺はロッテデパートやにぎやかな路面店が多く立ち並ぶ繁華街となっている。

そして先祖が校長を務めるなど、関わりの深かったと聞かされている釜山商業実践学校の後身となった東洲女子高校にも立ち寄った。
それは、同じく龍頭山の麓にあった。

点と点が繋がる。

そして今、長女は釜山の大学院で通翻訳を学んでいる。

偶然という言葉。

それは、必然という意味を孕んでいるのかもしれない。


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