自由な音楽の海を泳ぐサクソフォン奏者、ジェス・ギラム
イギリスにはジェス・ギラムという、若いサクソフォン奏者がいる。
わたしが彼女の演奏に触れたのは、2019年秋。フランス六人組を演奏するコンサートの一環で来仏し、ミッコ・フランク指揮フランス放送交響楽団とともにミヨー『スカラムーシュ』を演奏したときのことだ。
クラシカルサクソフォンが盛んなパリに、国外の若手演奏家が乗り込むとは、さぞかし実力派なのだろうとと期待しながらラジオフランスに足を運んだ。
ジェスはアーティスト写真と同様、パンツルックで舞台に登場した。2楽章ではテンポを落としすぎているのか、わずかに停滞感を感じたものの、1楽章・3楽章では生き生きとした演奏を聴かせた。
ソリストアンコールでは音色をがらりと変え、ジャズのスタンダードナンバーである『イン・ア・センチメンタルムード』を披露。「サクソフォンといえばジャズ」と思う観客の期待にも応えられるだけの技量を持っているのだと思い、好感を覚えたものだ。
サクソフォン奏者である友人が「YouTubeではジャズばかり吹いている奏者に依頼するなんて」とこぼしていたが、わたしが聴いたジェスの演奏はどう考えても、クラシカルサクソフォンの範疇だった。
……が、その後わたしもYouTubeでBBCプロムスの動画を観て、驚いた。
スカラムーシュ、かなり刺激的な音色で、自由な音の処理で演奏している。
生で聴いたときは全く気にならなかったが、動画を観てようやく友人がこぼしていた言葉の意味がわかった気がした。他のサクソフォン奏者は、スカラムーシュをこういう吹き方では吹かない。これはジャズではないけれど、クラシックでもない何かになっている……。
ジェスがどういう奏者なのか、途端に気になってしまった。
楽器から音楽に染まるのではなく、理想の音を楽器に反映させる
自分の頭の中に描くヴィジョンを音として表現するのは、歌手の歌い方を参考にしました。(*1)
ジェスはクラシカルサクソフォンを学び、クラシカルサクソフォン奏者として2018年にはクラシック音楽の大手レーベルであるデッカと録音契約を結んでいる。正真正銘のクラシカルサクソフォン奏者だ。
しかし彼女が思い描く自身の理想像は、どうやらクラシカルサクソフォンの巨匠の後を追うことではないようだ。彼女は内にある音楽を表現するために、一番適切な手段としてサクソフォンを選んだようにも思える。
曲に取り組むときには歴史的な背景も学ぶべきだと思います。サックスではなく人間という観点から、その音楽が秘めている物語に取り組むのです。(*1)
サクソフォンという楽器から入り、楽器の文化に沿った作品を学んでいくと、音楽の好みは凝り固まる。手癖で旋律を演奏してしまうように、楽器の持つ個性に縛られている演奏家は少なくないはずだ。
おそらく、ジェスにはそれがない。楽器の文化にとらわれない、ジャンルにもとらわれない。自由な音楽の海を泳いでいる。
ジャンルを超越した演奏
私はジャンルに対するこだわりがないので、演奏する曲もジャンルとは関わりなく、自分の心の琴線に触れるものを選んでいます。(*2)
そういうもの納得だ。彼女のファーストアルバム『RISE』には、様々なジャンルの曲が取り揃えられている。
14曲中、サクソフォンオリジナル作品は、以下の6曲。
イトゥラルデ『小さなチャルダッシュ』
ミヨー『スカラムーシュ』より3楽章
ジョン・ウィリアムズ『エスカパード』より1楽章
ジョン・ハーレ『RANT!』
ヴィードフ『はかないワルツ』
サクソフォンのオリジナル作品を選ぶとなるとフランスらしい、印象派の流れを汲んだ作品や、現代作品を選びがちだ。このアルバムにはそういったフランスのニオイはほとんどない。
ミヨーはフランス人だが、スカラムーシュの3楽章の副題はブラジルの女。サンバから影響を受けていることは明らかだ。
これ以外に選ばれた曲はデヴィッド・ボウイや、マイケル・ナイマンなど、クラシックのコンサートではあまり演奏されることのないポピュラー音楽。
それぞれの曲が生き生きとしていて、曲の個性を最大限に生かした演奏をしている。これができるサクソフォン奏者はそう多くない。
私はクラシックの訓練を受けましたが、ジャズの自由な即興精神からも学ぶべきことが多くて、あらかじめ譜面に書かれたメロディを演奏する時でも、より自由で即興的に感じられるような表現をめざしています。(*2)
クラシックを学ぶ若い奏者は、楽譜通り演奏することに手一杯になりがちだ。慰問演奏でポピュラー音楽を演奏し、ダサくなってしまうことすらある。彼女のように、自ら音を紡ぐような意識を持つ奏者がどれほどいるだろうか。
グレーな作品を、グレーにで終わらせない技術
ピアニストにとって『ラプソディ・イン・ブルー』は、クラシックとジャズを折半したような「グレーな」作品だと思う。クラシカルサクソフォンには、そういったグレーな作品が山ほどある。
ジェスのアルバムに収録されているジョン・ウィリアムズ『エスカパード』もそうだし、フィル・ウッズ『ソナタ』のように、ジャズ奏者がクラシック音楽の形式に則って書いた作品も存在する。
ジャズ奏者がクラシカルな作品を演奏することはときに難しい。逆もまたしかり。ジャズを捉え違えたような歌いまわしになることもある。
ジェスのYouTubeチャンネルには、フィル・ウッズ『ソナタ』の映像があった。彼女の演奏は「ジャズらしく吹く」という域を脱している。これはひとつの答えなのかもしれない。
クラシカルサクソフォンの一大流派であるフランスの流れを汲んでいない彼女の存在は、フランスの流れを学んだサクソフォン奏者からすれば特異な存在だろう。
サクソフォンはフランスだけのものではない。ヨーロッパ各地にレベルの高い奏者が増えていることも、日本にもレベルが高い奏者が多いことも、パリではよく知られている。
サクソフォンを知らない音楽ファンから求められているサクソフォン奏者は、ジェスのような存在だ。歌のために楽器を持ち、ジャンルを超えて演奏する。彼女は今後も活躍の場を広げていくだろう。
参考記事
*1 イングランドの血が聴こえる 〜 弱冠20歳クラシック・サックスの新星が登場! ジェス・ギラム THE SAX vol.98 Interview
*2 ジェス・ギラム『RISE~ジェス・ギラム・デビュー!』 ミヨーやショスタコーヴィチからデヴィッド・ボウイやケイト・ブッシュまで、幅広いレパートリーをカヴァー | Mikiki