2000年、僕らが渋谷から出た理由
となりに新しい店舗を出すことになった話です。
こちらの宝永ビルに来たのはもう20年以上前、たぶん2001年?
2000年?
渋谷の公園通りを上がってライブハウスeggmanを越えたところを右に下っていく道の下の方のマンション、ロイヤルパレス原宿に事務所を借りて有限会社を設立したのが1998年。
今はSchottが1階に入ってるこちらのマンションのたしか501号室だった記憶。
もちろん最初は店じゃなくてレーベルの事務所としてでした。
現在は2006年の会社法改正により現在では1円でも株式会社を設立できるようになりましたが、当時は株式会社が1,000万円、有限会社でも300万円の資本金が必要でした。
そのため会社設立は株式のみで有限会社を設立することは出来なくなったので今の人からしたら有限会社ってなんじゃらほい?って感じかもですが、有限会社は設立してから18年以上経っている会社なので結構優良なのです。
設立26年のウチはド低空飛行ですので違いますけど笑
たぶんこの部屋な気がするけどウチが借りていた25年前より家賃安い気がする。
敷金礼金の類もあの時より安いのだろう。
1998年の東京都最低賃金は692円で26年後の今は1,163円のはずなのに
あの時代の私に謝れ!
私はバイトもしてないフリーターでしたけど。
フリーターが借りた事務所があるマンションの前の道は今はイエローストリートと言うらしいですが最初入った時はなんの店もありませんでした。
下はサザビー系みたいな雑貨屋兼服屋で今ではロッカールームになっている地下は何度かいやらしい気持ちのデートの際に使っていた少し暗めのオシャレな居酒屋。
でもそれも最初からそうだったのか、途中からだったかもしれません。
確実に最初からあったのは向かいのオーセンティックな喫茶店くらいで(今はもうなかった)坂を登っても降りてもファイヤーストリートまで何もない道でした。
楽器屋RIDE ONになってるところに途中から大きなカフェが途中で出来てた記憶。
そこも格好つけたい相手との打ち合わせの際はよく利用しました。
事務所は小さいのでバカされたくなかったのです。
90年代はそういった感覚が異常に蔓延した時代で特に私は20代のバカ丸出しの男子ですので見栄命で生きていました。
もちろんタイムマシーンが1回175万円くらいで利用できるならば経理に土下座し経費として認めてもらい今すぐにあの頃の私に説教しにいきますが、安心してください。
当時の私も「25年後の自分がタイムマシーンで僕を叱りに来そうだな。」と日々もっとしっかりなきゃいけないと毎朝鏡に向かって言っておりました。
しかし90年代と若さのブレンドは最強です。
ドラッグいらずでドラッグしてる奴より簡単に毎日ぶっ飛べました。
でもドラッグなみんなは捕まったりダメになった分、まだバカな見栄だけをはっていた自分はなんとか良かったかもしれない。
言い訳ですけど。
で、そうなのです、ウチがそこに事務所作ってから2年間の間にこの道はめちゃ栄えたのです。
ちなみに今の原宿BIG LOVE RECORDSの周辺もそう!
ウチがあるビルも何もなかったです。
あの頃は敷金礼金もしっかり2ヶ月以上取られたし(しかも敷金なんてほとんど戻ってこなかった。個人でも敷金がまともに戻ってくるようになったのなんて2010年代入ってからな気がするよ。どの不動産も意地でも返そうとしなかったもの)、東京は更新料もしっかり取るので、その月に合わせて今の神宮前2-31-3宝永ビル3F-Aに引っ越しました。
なぜならば当時のインディーズ・レーベルは今みたいに流通会社が在庫を持ってくれるわけでもなく自分で在庫を持たなければならなかったのです。
CDプレスも細かい数だとめちゃくちゃ高かったので最低500枚から作って在庫を自分たちで抱えるみたいな感じ。
今では流通会社がプレスまでしてくれさらに売り上げと相殺してくれたりするので最初のCDの製作費さえもいらなかったりするし、さらに配信の手続きに収益の分配またJASRACの届けまでしてくれる。
音源も自宅で作れたりするわけだし、当時と比べたらレーベルやるのもバンドやるのもハードルの低さはハンパないです。
僕らの時代まではレーベルをやるにも凄くお金が必要だったし、不動産や銀行や流通会社やプレス会社やライブハウスやクラブやレコード屋にしたって今と違って嫌がらせかというくらいめっちゃ厳しかったし、何から何までハードルがクソ高かった。
そんなんだからレーベルをやるって人間なんてまずいなかったのです。
だからインディーズ・レーベルなんてやればだいたい注目された時代だったと僕は思います。
やるだけでチヤホヤされたもの。
内容なんて関係なかった気がするなー
その中から良いものがちゃんと支持された時代だったと思う。
だから今の方がレーベルやるのもバンドやるのも大変だなと僕は思います。
90年代後半はレーベルを運営するためにも作品を出し続けなければならず、そのため所属アーティストには随分と無理をさせてしまったと未だ懺悔の毎日ですが、作品が増えると在庫も増えます。
もちろんプレス代がかかるので余分なCDは作りたくはなかったのですが、流通会社から再注文来た時にはすぐ出荷、みたいに応えられないと後からじゃ売ってくれなかったのです。
それは今でもそうだと思いますけど、小さなインディペンデント・レーベルが自分で在庫持ってそれに対応するのは大変でした。
12畳だった事務所もあっという間に倉庫化していきそして何より流通会社からのプレッシャーも大変で、在庫場所を確保するために引っ越しを決めました。
それがなんと2000年代に入った瞬間、流通会社が急に在庫を持ってあげるよと言い始めたのです。
えっ!ま、まじかよ!
引っ越したじゃん!
この在庫用の場所、どうずんのよ!
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サポート!とんでもない人だな!