コロナ対応、日本人と米国人の違いは「死生観」の違い?
日本と米国のコロナへの姿勢は大きく異なるようです。
これについて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
死者数のインパクトを人口比で想像してみる
日米を比較してみて、彼我のへだたりに衝撃を受けました。
米国のコロナ死者数(85.4万人)は、日本のそれ(1.8万人)の46倍にのぼります。
米国の人口は日本の約2.6倍なので、人口比をもとに「これがもし日本だったら?」と死者数を当てはめてみます。
すると、わが国に換算すれば、なんと死者数が“約33万人”という途轍もないインパクトになります。
いささか乱暴ですが、これは「東京大空襲」と「広島と長崎の原爆」の死者数を合計した人数に匹敵します。
もし、わが国のコロナ死者数がこれほどであったなら、日本人のいだく怖れとおののきは現在の数層倍のものになっていることでしょう。
米国は力わざ、日本は忍耐力
2年におよぶコロナとの戦いにおいて、私はつくづく米国人と日本人は国民性が違うなあ、との感を日増しに強くして来ました。
それは、マスクやうがいなどの生活習慣の有無や、握手や抱擁(ハグ)などの対人文化の相違を感じるなどというレベルではありません。
米国はパンデミックの初期から多くの死者を出したものの、それをものともせずに、一刻も早い社会・経済活動の回復を目指しました。
そして、世界に先駆けてワクチン開発に成功し、力わざでコロナ禍をねじ伏せようとしたのです。
おっかなびっくりに緊急事態宣言と規制緩和を繰り返し、国民の強靭な忍耐力だけを頼りにワクチンの普及を待つという、日本の取り組みとは大きな違いがありました。
ここに私は、米国の底力をみます。
両国は死生観が異なるのではなかろうか?
米国人は、良く言えば「大胆」、悪く言えば「無神経」。
日本人は、良く言えば「注意深い」、悪く言えば「臆病」。
粗雑な比較ですが、両国の差異はこう言い表せるかもしれません。
上に述べた死者数のインパクトを見ると、目的達成のためにはある程度の犠牲をやむなしと考える米国と、出来る限り犠牲を抑えてみんなで耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで目的の達成を試みる日本の違いがわかります。
両国の開きは「国民性の違い」よりも「死生観の違い」と思えてきます。
すなわち、「個人の自由のためには命の代償もいとわない」という、米国人の人生態度を垣間見る気がするのです。
もちろん、この“命の代償”とは他人だけでなく自分のものも含みます。
すこしだけ、米国を見習ってもよいのかな
オミクロン株の感染急拡大は、ふたたび日本人を恐怖に落とし入れました。
他方、欧米に視点を転じれば「オミクロン株の拡大は終わりの始まり」との議論がなされています。
昨年の11月にオミクロン株の発祥地となった南アフリカでは、いまだワクチン接種率が国民の25%程度なのにもかかわらず、感染がピークアウトするとすぐに、多くの国民が“平常モード”で新年を楽しんでいました(この感覚にもビックリです)。
オミクロン株の正体は完全に解明されていないため、いま、滅多なことを言える段階ではありません。
また、上に述べた米国人の人生態度が「勇敢」なのか「蛮勇」なのか、日本人のあいだでは意見の分かれるところでしょう。
しかしながら、コロナ収束と社会・経済活動の回復に向けて、日本人ももう少しアグレッシブに舵を切っても良い気がします。
コロナとの戦いは、耐えて忍んでウィルスが無くなるのを待つのではなく、新型コロナが自然界にあまたあるウィルスの“One of them”に過ぎなくなるまで、それとの共生を目指すべきと思うからです。
最後までお読みいただいた方にお礼申し上げます。有難うございました。